アンゼン・アンシンという呪文

 今日はすでに「風の盆」という文章をアップした。普通ならこれでノルマを果たしたような気になって、安らかに床に就くところだが、しかし因果なことに、ここ数日ゴボゴボ言ってきた我がロートル湯沸かし器がついに作動してしまった。ここで一度沸騰させて蒸気を排出させないことには眠れそうにもないのだ。それは何かと言えば、このところ報じられたいくつかの事件、というよりその報道のされ方、いやそれもそうだが、そうした事件に対する政治家たちの対応の仕方がどこかおかしい。なのに、それを指摘する者が少なくとも私の知る限り誰もいないことが、次第に腹立たしくなってきて、その憤懣を吐き出さずには体に障るのでは、と思われてきたわけだ。

 まず第一点。事件の正確な推移も、それに対する政府要人の言葉も正確に覚えてはいないが、尖閣諸島周辺に来た中国の巡視艇(でしたか)が日本の監視船(でしたか)にビームで照準を合わせた合わせないという例の事件である。でもなー、向こうの巡視艇がそこに来ていたというのは、まさか物見遊山で来てたわけではないでしょ。来たからには仮想敵艦に向けて構えるのは自然と違いまっか。一昔前の兵器なら、照準を合わせてもビームなんて発しなかったのが、現在の最新鋭の兵器はビームを発するだけでなく、向けられた方はそのビームに反応しかつ記録するわけである。でもねー、はっきり言えば、双方がそれぞれ相手を仮想敵艦とみなしてそこで対峙しているということそれ自体が異常事態であって、照準を合わせた合わせないなんていうのは二義的副次的な問題とちゃうの?

 ほらよくあるでしょ、本当のピストルで相手を撃つのじゃなくて、おい、きみ隙があるぜ、とか何とか言って手でピストルの形を作り、口で「バーン」と言ってみるやつ。ほらよくいるでしょガン・マニアが。実弾が入ってなくとも、そこに銃があれば撃つ真似だけはしてしまう習性が。照準を向けろという上官の指令でそうしたのではなく、たぶん口で「バーン」と言いながら砲手が銃を向けたのと違います? 要するにですな、「お前俺に銃を向けただろ、分かってんだぞ、ほらここに…」なんて抗議するのは、なんちゅうか子供の喧嘩、不良の喧嘩※みたいだということ。

 もう一度言いますと、相手のやることもいちいち大人気ないが、こちらも明らかに相手を仮想敵とみなして、一人でやるのは心細いのか米軍と一緒に「島奪還作戦」(でしたか)とやらを大っぴらにやらかしたでしょ。これ照準を合わせるってこと以上に、相手を刺激してまっせ。そんなことをやっていながら、「きみ、照準合わせたっしょ(なぜか北海道弁)」と難癖つけるのは、なーんだかみったくないなー、ということ。

 もう一つは、言うまでもなく北朝鮮の核実験。誤解して欲しくないが、今の北朝鮮という国のあり方、その指導者にはもううんざり。もちろん北朝鮮の肩を持つ気なんぞ逆立ちしても出てきませんが、でも米国の出方はともかく、その尻馬に乗っかったような発言を繰り返しているわが国指導者たちの言動を見てると、ほんと腹立たしいかぎり。いま米国の出方はともかく、と言ったが急いで前言取り消し。つまり数え切れないほどの回数、核実験をやってきて、しかも調べるのも癪なほどの大量の核弾頭を保持しているアメリカが、北朝鮮の核実験を非難する資格など、そもそも皆無だということ、これは赤子だって(あっそれは無理か)分かりそうな事実とちゃう? 

 つまりでんな、アメリカは良い国、正義の国だから核兵器を持つのは良いが、北朝鮮(あるいは他の問題国)は不正義がまかり通っている国だから核兵器を持つのは悪いのか、その資格はないのか。いやほとんどの人がそう考えている。でもなー、ほんとにそうかな? つまり従来の(?)兵器だったら、たぶん悪人だけをピンポイントで狙う使い方は可能でしょう。でも核兵器はそうはいきませんぞ。悪人どもの近くにいる、いやはるか遠くにいる者までも殺傷し、生き残ったにしても致死的な後遺症を与える。いやそれは現在に留まらず、はるか未来にまで累を及ぼす。

 つまりですな、たとえ如何に困難であろうとも、この地球上から一掃しなければならぬ殺人兵器。だからアメリカはともかく(?)、わが国の為政者たちは、本当はこう言わなければならないんと違います?

 「北朝鮮よ、今回の貴国の核実験は単に周辺諸国だけではなく貴国自身にとっても実に残念かつ悲しい振る舞いです。核開発は決して他国を攻撃するためでなく、核で武装したアメリカなどと対等に話し合うためのいわば切り札として進めてきた、という貴国の言い分を信じたい。しかしそんなバランス・オブ・パワー理論が不毛かつまやかしのものであって、そうした理論に乗っかって政治を進めることの愚かしさに気づいてください。わが国としても以後さらに一層、世界中からの核廃絶を目指して渾身の努力を続けていく所存であるからして、……」

 いや、そんなこと聞く相手でないことは百も承知だ。でもねーもし私が北朝鮮側の人間だったら、そんなおざなりの非難声明を聞いてますます奮起しまっせ。相も変わらぬ非難声明で一応怒りのポーズを見せてるだけのシンゾウちゃん(でしたっけ?)の発言態度を見てると、なーんかウサン臭いっちゅうか…

 ウサン臭いで思い出したが、それが表題の意味でした。つまり昨日でしたか野田なんとかおばちゃん大臣(これ差別表現と違いまっせ、事実です)が記者団に向けて滔々と自説を主張している、それもキモノ姿で、を見ていて強―く感じたことです。いやトンネルなど老朽化した公共施設を点検整備するのはそれこそ「安全・安心」のため必要なのは当然です。でも大型公共事業(と言うんでしたか)をする理由として、いかにも恩着せがましい言い方でマクシ立てられると、こちとらの安全弁が(なにロートル湯沸かし器のことですがね)ピーピー言い出すんですわ。警戒しろ警戒しろ、こうやって「アンゼン・アンシン」と言いながらいつの間にか憲法改悪や核武装まで国民を引っ張っていくつもりだぞーって。

 北朝鮮への贋首相のメッセージは確かにあまりに稚拙で尻切れトンボに終わったが、でも本当に言いたかったこと、つまり「アンゼン・アンシン」という呪文を聞いて陶然としないでおくれ、そんな暗示に誤魔化されるな、という貞房の警戒警報だけは心の片隅にでも留めておいてくださいな。ともかく今の内閣、どこかワザトラシイ、ウサンクサイ。テレビもシンブンも今や全員集団暗示にかかっていて、内閣の言うことをただただナゾッテいるだけ。

 まっここまで書いたら少し落ち着いてきました。さっこれから寝ようっと。お休みなさい。

※不良言葉では、これをガンをつける、ガンを飛ばす、と言います。むかし高校生だったころ、先輩の一人が祭りの夜、すれ違った他校の生徒と「おめえ、ガン飛ばしたべ」、「なにーっ先にガン飛ばしたのはニシャ(おまえ、のキツイ言い方)の方だべ」で喧嘩になり、二人はあの夜の森公園で果し合い。正確な結末は覚えてませんけど、確か刃傷沙汰、もしかして殺人事件にまでだったかな、エスカレートしました。だからねシンゾウ(でしたっけ?)ちゃん、いやさシンちゃん、そうならないよう、アンジョウ頼みまっせ。

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴い父祖の地・福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」の名を冠したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。洗礼名フランシスコ。
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3 Responses to アンゼン・アンシンという呪文

  1. 阿部修義 のコメント:

     「風の盆」と「アンゼン・アンシンという呪文」を読んでいて、先生の『島尾敏雄の周辺 佐々木孝文芸評論集成』の中の「雁の会事始め」と「われ俳諧の裾野に徘徊す」に書かれてある文章を思い出しました。

     「連句の会に参加したのはこれがもちろん初めてだが、実に不思議な感銘を受けた。主観的・個人的な詩想が、他者あるいは客観的な眼差しの中で鍛えられ、承認されつつ共同主観的なものに統合され昇華される。そして全体が思ってもみないような、ある不思議な調和を醸し出す」。

     この本の中で、「冬浅く半旗のゆれる大使館」に美子奥様が、

    「満ちてたふるるイカのとっくり」と受けられ、眞鍋氏が絶賛されていました。

     安倍政権が「イカのとっくり」にならなければと私も危惧しています。そして、連句の心を持つことで他者との「不思議な調和を醸し出す」ように私は感じました。

  2. 松下 伸 のコメント:

    アベノミックス・・?
    アメとムチのミックスでは困るのですが・・
                       梁塵

  3. 阿部修義 のコメント:

     追記 漠然と「連句の心」と書いてしまって、一体何なのかと考えていましたら、2月10日「個から普遍へ」の中で先生が「相手の異質性を認め尊重すること」と言われていて、このことだと気づきました。蛇足なので書くことを躊躇していましたが、日本の外交問題全般に必要なことのように思いました。

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