或る私信

      南仏に住む或る日本人への私信

  「私信」といっても貴女のお名前や住んでおられる町の名前など特定出来ない書き方をしますのでご安心ください。初めてのお手紙なのになぜ、と思われるかも知れませんが、貴女の住まわれている町の絵葉書を見ていますと、本当に天空にあるような町ですし、人口が千人に満たない美しい町とあっては(おっとそれ以上書くとどこか分かってしまうのでここまで)、そんな町に住む貴女との出会いを他の人にも共有していただきたい、と思ったからです。

 いやそれだけといえば嘘になります。ご存知の通り原発事故後、フランスのサルコジ大統領は世界のどの国の首脳よりも早く日本との連帯を示すために来日(3月31日)しました。そしてそのフランスはお隣りのドイツとは違って原発立国をいわば国是にしている国です…つまりそのフランスにお住まいの貴女に、貴女の周りのフランス人たちは実際はどう考えているのか、それを教えていただければ、と願っているからです。

 既にブログでご存知かも知れませんが、いま『原発禍を生きる』の中国語訳とスペイン語訳が同時に進んでいます。これは私と関係の深い二つの国の人たちに原発禍がどれほど悲惨なものか、そして原発に頼ることがいかに非人道的なことなのか、を知っていただきたいとの願いから始まった話です。そうっ、もし貴女のお知り合いのフランス人で日本語も良く理解でき、理解できるだけでなく翻訳も出来るような方をご存知でしたら、その方に翻訳の話を…いやいや初めてのお手紙にそんな重いお願いをしてはいけません。

 しかしこの原発事故のあと、信じられないほど不思議な出会いや、思いがけない出来事が私の周りにも起こっていますので、万が一と思って言ってみただけですからどうぞ気にしないでください。実は先ほどから誰の言葉だったか思い出せずにいる(もしかしてオルテガのかも)言葉があります。それは「生は急ぎである」(La vida es prisa))という言葉です。日本語の「善は急げ」とほぼ同じ意味でしょう。伊東静雄の『春のいそぎ』という詩集の題名と重なって、なぜか好きな言葉です。

 要するに、人生は短い、いや短いだけでなく、思わぬ危険に充ち満ちている。だから良いと思ったこと、これはと思ったことを明日に延ばすな、ということです。貴女とは違って、私くらいになりますと、それこそ明日をも知らぬ年齢であると常に覚悟していたいと思ってます。そうだ、異国の地にあって、日本の詩人の本などお手元に無いかも知れませんので、先ほどの『春のいそぎ』の中で私が一番好きな詩をご紹介しましょう。

        なかぞらのいづこより
  
    なかぞらのいづこより吹きくる風ならむ
    わが家の屋根もひかりをらむ
    ひそやかに音変ふるひねもすの風の潮(うしお)や

    春寒むのひゆる書斎に 書よむにあらず
    物かくとにもあらず
    新しき恋や得たるとふる妻の独り異(あや)しむ

    思ひみよ 岩そそぐ垂氷(たるひ)をはなれたる
    去年(こぞ)の朽葉は春の水ふくるる川に浮びて
    いまかろき黄金(きん)のごとからむ

 六行目のふる妻のところだけは違いますが、後はまさに今の時期の私の世界そのものです。上州の空っ風は有名ですが、この時期の相馬の空っ風も相当なもので、私の住む陋屋はまるで地震の時のように家全体が揺れます。でもそんな家でも春の光は豊かに降り注いでくれています。
 
 しかし原発事故のあと、相馬の美しい空も阿武隈の山々も、太平洋の波寄せる海岸線も、事故前の輝きと誇らしさを失ってしまいました。いや実際にすべて汚染されたというわけではありません。幸いに相馬地方は線量も低く、健康に被害が及ぶことはありません。しかし私たちと自然とのあいだに、かつてのような無条件で絶対的な信頼関係が失われてしまったことは事実です。もちろん裏切ったのは私たち人間の方です。さあ、その信頼関係が完全に修復されるまでどのくらいの時間を必要とするか私にも分かりません。もちろんこれは除染云々の問題とは別個の問題です。私たちの意識の中で、自然を前にしたときにちょうど紗が下りたような夾雑物が間に入ると言ったらいいでしょうか。
 
 いや言いたいのは、貴女の住んでおられる美しい天空の町がそんな風になって欲しくない、と心から思っているということです。どうかフランスのご友人たちとこの問題についてお話ししてみてください。そしてその内容をコメント欄に書いていただけないでしょうか。書き込むことがわずらわしいとお考えなら、お暇をみて私宛のお手紙でゆっくり教えていただいてもいいです。
 
 あゝそうそう、今日の午後、お約束の『モノディアロゴスⅤ』を航空便でお送りしました。そしてもう一冊、これは私たち夫婦のプレゼントとして『峠を越えて』という婚約時代の往復書簡集も入れました。若いころの私たちの手紙が、フランスでも有名な観光地にあるお宅のベランダ、あるいは公園のベンチなどで読んでいただけると考えただけで嬉しくてたまりません。こういうことは私より妻が千倍も万倍も喜んだでしょうに…。
 
 最後に貴女のアドレス・シールに写っているニャンコちゃん、一昨年まで私たちと暮らしていたココアと生き写しでびっくりしました。まだ元気でしたらヨロシク。それからおっしゃるように送料だけは頂きますが、お望みなら他の私の私家本(右下の「呑空庵刊私家本のご案内」から入っていきますとリストがあります。そこからメールで注文できます)もフランスに行きたがっております。ただ問題は送料がかなり高いことです。しかし先日『原発禍を生きる』をそちらに送ってくださった方がまたなにかを送る荷物の中に入れたり、送料はその方からゆっくり私に郵送するなど、いちばんいい方法を使ってみてください。
 
 もしかすると貴女が超有名な観光地に別荘をお持ちの大金持ちでしたら、こんな心配は不要でしょうが。

 あゝずいぶん長いお手紙になりました。今晩はこの辺で失礼します。お気が向いたら、コメントでもお手紙でも何か書いてください。それではお元気で。

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佐々木 孝

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴い父祖の地・福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」の名を冠したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。洗礼名フランシスコ。
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1 Response to 或る私信

  1. エトワール のコメント:

    フランスには、現在、23カ所に合計72基の原子炉があります。世界各国が原子力発電の開発に様々な理由から消極的な姿勢を見せている中で、ロシア、韓国、日本とともに、最も積極的に原子力発電を推進してきた国です。アメリカでは、1977年、民主党のジミー・カーター政権下で、核拡散防止を目的としてプルトニウムの利用を凍結する政策を発表して以後、高速増殖炉の開発が全面的に中止され、核燃料は再処理されていません。イギリス、ドイツでも、高速増殖炉は、すべて廃炉になっています。そうした中、フランスでは、現在、2つの高速増殖炉(フェニッスとスーパーフェニックス)が稼働しています。そもそも、イタリアには、原子力発電所はありません。また、ドイツでは、2022年までに17基の原子力発電所の完全廃止を決定しています。

    原子力発電所ができたのは、ほんの少し前の60年前のことです。この60年の間、世界の人々は、いったい何をしてきたのだろうかと思います。

    人類が核エネルギーを発見したのは1930年代のことで、実用化は、1945年の原子爆弾の開発が最初です。その次は、原子力潜水艦の動力炉でした。1954年に最初の原子力潜水艦が進水しています。歴史上、原子力は最初に軍事目的で研究が進んでいたことになります。

    史上初の原子力発電は、1951年に完成したアメリカ合衆国の高速増殖炉EBR-Iです。この時に発電された量は200w電球4個の発光がせいぜいでした。

    本格的に原子力発電への道が開かれたのは、1953年12月8日にドワイト・D・アイゼンハワー大統領が国連総会で行った原子力平和利用に関する提案が起点とされています。
    でも、最初に原子力発電所を作ったのは、アメリカではなくソビエト連邦でした。1954年6月27日、モスクワ郊外オブニンスクで、世界最初の原子力発電所が、発電を開始しています。

    1956年には、世界最初の商用原子力発電所としてイギリスセラフィールドのコールダーホール原子力発電所が稼働します。アメリカでの最初の商用原子力発電所は、1957年12月にペンシルベニアに完成したシッピングポート原子力発電所でした。

    原子力発電初期のキャッチフレーズは、「Too cheap To meter」でした。「原子力発電で作った電気は安価なので、計量する必要がない」という意味です。でも、現実は違いました。燃料は安価でしたが、バックアップ装置の増設等のリスク管理やセキュリティ面でのコストが膨大なことが分かってきました。要するに、導入当初は、建設費とメンテナンス費が異常に高くつくという事実に誰も気がついていなかったということです。

    1974年になって、ノーマン・ラスムッセン教授を中心とした原子炉安全性研究において示されたラスムッセン報告により、確率論を基礎にした原子力発電の安全性に関する理論が推進の立場から広く語られるようになりました。これによれば、大規模事故の確率は、原子炉1基あたり10億年に1回で、それはヤンキースタジアムに隕石が落ちるのを心配するようなものであるとされていました。ひどい話です。

    日本における原子力発電は、1954年3月、改進党の中曽根康弘・稲葉修・齋藤憲三・川崎秀二らにより原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされています。この時の予算は、2億3500万円。ウラン235にちなんだものでした。

    1955年12月19日に原子力基本法が成立し、1956年1月1日に原子力委員会が設置されます。初代の委員長は読売新聞社社主の正力松太郎氏でした。正力氏は、初代科学技術庁の初代長官となり、「原子力の父」と呼ばれていました。

    1956年6月に日本原子力研究所が特殊法人として設立され、研究所が茨城県東海村に設置されました。日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年10月26日のことです。東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行っています。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっています。

    福島第一原発の沸騰水型軽水炉BWR-3 格納容器型式Mark-1が稼働を開始したのは
    1971年3月26日のことです。建築工事費は、約390億円で原子炉は、米国のゼネラル・エレクトリック社 によって設計され、プラント施工工事は鹿島建設が行なっています。当時、南相馬市(原町市)の各小学校の6年生は、福島第一原発へ見学に行っていました。バスで原子力発電所へ行き、原子力発電の仕組みを発電所の人に説明してもらいました。

    1979年3月28日、スリーマイル島原子力発電所事故が発生しました。
    1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生しました。
    2011年3月、福島第一原子力発電所事故が発生しました。

    新約聖書のヨハネの黙示録第8章には、「第三の天使がラッパを吹いた。すると松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は、ニガヨモギ(チェルノブイリ)」と書かれています。

    いずれ原子力発電所が全廃されることは歴史の必然です。世界史の中で、原子力発電所が存在した1951年~20xx年は、人類の愚かな歴史として後世に長く語り継がれることになると思います。

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