襠(まち)の無い社会

『大衆の反逆』の中の気になる言葉をもう一つ紹介しよう。
「いまは《風潮》の時代であり、《押し流される》時代である」

 これにはこう簡単な説明を加えた。「大衆化社会のもっとも悪しき面と言えよう。誰も責任をみずからに引き受けることを嫌い、すべてを他人のせいにする。生の重心が絶えず上方にあり不安定極まりない。」

 ここで言う「生の重心」は今さら言うまでも無く「魂の重心」とまったく同じ意味である。

 ともかく今はすべてが数量化される時代である。「風潮」と言い、「押し流される」と言い、要するに多数に流されることだからである。質より量が幅を利かす時代。文字通りそんなことをゲームに仕立てたテレビ番組もあったようだ。つまり出演者に二つの選択肢のうち一つを選ばせ、それが視聴者の多数が選んだものだったら勝ちというゲームである。

 確かに民主主義は少数の特権階級の専横を許さないで多数者の意志を尊重する体制、つまり多数決の原理をその主要な仕組みにしているが、しかし全体を構成する個が自立していなければ、つまり質が悪ければまさに衆愚政治に容易に転落する運命にある。

 いまや数量化はあらゆる領域を侵している。その最たるものは教育現場であろう。児童・生徒の個性は数値の中に埋没している。自慢じゃないが(確かに)、試験の成績と学期末に渡される通信簿(たぶん今は別の呼び名になってるだろうが)との間に相関関係があると気づいたのは、忘れもしない中学一年生の或る春の日だった(遅っ!)。そのとき、登校時だったか下校時だったかは定かでないが、とにかく道を歩いていて突然啓示に打たれたようにその事実い思い当たったのである。そうだ!試験でいい成績を取ると通信簿も良くなるんだ! しかしだからと言ってその後しっかり勉強する気になったわけではなかったが。

 学力だけでなく、いわゆる「行い」も数字で評価される。今の教師は、その仕事のかなりの部分は、こうした成績評価そしてその管理に費やされる。しかし複雑な数式を使ってはじき出されたそれら数字の山が、以後何かの役に立つか、と言えば、よほどのことがない限りフィードバックされることもなく、ロッカーか金庫に保管義務期間のあいだ惰眠をむさぼるだけである。

 教育機関だけでなく、人の生命を左右する医療機関でも同じ現象が見られる。いや取りあえず指摘したいのは医療そのもののことではなく、いわゆる医療事務に関してである。病院経営にとっては、医療そのものよりこうした医療事務の機能化が命綱になっている。すべてがいわゆる「点数」で評価される。

 美子が車椅子で生活するようになり、介護サービスを受けるようになってから、特にこの問題に日々直面している。あらゆるサービスが点数化されている。つまり取りあえず重要なのは、サービスの質よりも量なのだ。もちろんこうした点数化が、医療や介護の機能化・公平化に必要であることを否定することはできない。一昔前のように、たとえば費用が医者や看護師ごとにまちまちだったら、いろいろ問題が生じるであろうし、時には大きな不正が行われることだってありうる。しかし…

 美子が体調を崩したときなど、昔風に言えば「かかりつけ」の医者に往診してもらうが、そんなとき、ふと複雑な思いにとらわれることがある。つまり往診してもらうことの有難さ、勿体無さに有難い気持ちにさせられると同時に、あゝこれもすべて点数化された医療行為なんだろうな、という一種残念な気持ちである。つまり『赤ひげ』、おっとこれは古すぎる、そう小津安二郎や成瀬巳喜男などの古い映画の中の光景はもう現代では見られないだろうな、という残念な気持ちである。昔だってしっかり治療代をもらったであろうが、しかし金持ちの家からはどっさり、しかし貧乏長屋でせんべい布団(古っ!)に包まっている病人からはビタ一文受け取らないどころか、逆に小金を恵んでいく、なんて光景は、どこか辺鄙な田舎でならともかく、もう何処にも見られないであろう。

 その長屋の貧乏人だって今では個人的な好意の対象ではなく、数値化された基準で割り出される生活保護とか失業手当の対象でしかない。

 以上すべてのことは、戦後直ぐの農地改革を皮切りに、急速に取り入れられた社会改革の成果ではある。ありがたいことではある。しかし有難がってばかりはいられない側面もまたあるわけだ。一番の問題は、すべて数値化され合理化された社会には、個人の発意・創意工夫、あるいは善意や寛大さが入り込むすき間が、襠(まち)が、糊しろが、余白が無いということである。すべてが、いやほとんどすべてが、のっぺらぼうの、名無しの権兵衛の、要するに個人ではなく組織や社会という全体が決していく世界なのだ。

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佐々木 孝

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴い父祖の地・福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」の名を冠したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。洗礼名フランシスコ。
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1 Response to 襠(まち)の無い社会

  1. エトワール のコメント:

    2年ほど前のことですが、友人の小学校の先生からお話を聞く機会がありました。とんでもない話をたくさん聞きました。

    「家庭通信」という先生が作る各家庭への伝言紙があるそうです。その紙をできるだけ数多く作って家庭へ配信すると先生の成績はあがるそうです。それで、ある先生は、毎日、家庭へ家庭通信を送るそうです。そうした先生の業績評価は確実に上がり、出世するそうです。でも、「家庭通信」はそのほとんどがゴミ箱へ一直線となると思われるそうです。これは、まだ、微笑ましお話しでした。

    もっとひどい話は、学級のテストの平均点をあげるために、例えば、いつも5点とか10点しかとれない成績の悪い子供にテストのある日に休むように勧告する先生がいるそうです。自分の業績をあげるためにです。

    はあ、クラスの平均点をあげるために、成績の悪い子供をテストのある日に休ませる?そんなこと本当に起きてるの・・・

    これは、この近年、全国で構造的に起きている現象だそうです。

    成績の悪い子供にテストの日に休むように勧告する先生、もしもそういう人がいたなら、どうかよく考えていただきたい。貴方のしていることは、人殺しや誘拐や強姦よりも、悪辣で、人間として絶対にやってはいけないことです。

    この話を聞いて、テストのある日に休むように勧告される子供達の気持を思うと涙がでそうになりました。

    この国では、毎年30万頭もの捨てられたペットが殺されています。スーパーで売れ残った食糧を毎日大量処分し、テストの成績の悪い子供にテストのある日に学校を休むように勧告する先生がいます。失業者は300万人以上、犯罪は年間300万件以上起きています。死んでいるはずの人間がどれほどいるのかさえ掌握できていない劣悪な行政機関ばかりで、親が生きていることにして親の年金を不正に年金を受給している人がいます。破産者は年間20万人、自殺者は年間3万人です。

    こうした面をとりあげると、これ以上悲惨な国は、多分、この世の中にはない。貧しくても、紛争があっても、治安が悪くても、独裁政権でも、それは一部の心ない人間がいることによるものです。この国は民主主義の確立した近代国家でありながら、ここまで堕落している。

    この話を聞いた日は、ひどく怒りを感じた一日でした。

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