1)今の日本の民主主義の現状をどう考えるか
2)どうすれば民主主義を具体的に立て直すことができると考えるか
実はいま、政治家志望者の入る何とか塾の入塾試験みたいな恐ろしい問題を出されている。誰から、あるいは何処からかは現段階では言えない、いや言わない方がいいだろう。でもどうしてそうなったかについては説明しないわけにはいくまい。
要するに最近、この二つの問題をも含むテーマをめぐって、なんと四時間半にも及ぶロング・インタビューを受けたのである。しかしその時間とて日ごろ人と話す機会が滅多にない私が、無理に相手を引き摺り込んだ結果であり、しかもそれら二つの難問を上手に回避しての一人語りだったきらいがある。だから相手は、まとめる段になって、さてあの佐々木は結局何を言いたかったのだろう、と悩んだはず。それで再質問、私からすれば再試となったのだろう。しかしありがたいことに、与えられた時間はたっぷりある。ゆっくり答えてもいいらしい。しかしこのモノディアロゴスとは別に、となるとしんどいので、ひとまずここで書いていくことにした。
それで結局は先日の繰り返しになるかも知れないが(その恐れ大いにあり)、今日から何回かに分けて、私なりに真面目に答えていこうと思う。ただ正直言って、これまでそんな難問を正面切って考えたことはないので、論理立った模範解答は初めから諦めている(出した方もそれを望んでいるはずもない、と高を括って)。端から煙幕を張るようだが、はっきり言ってこの私に妙案があるわけではない。ただ私の力の及ぶ限り、真面目にそして無骨に答えていくだけである。
日本の民主主義の現状
俚言で答えよう。蟹は甲羅に似せて穴を掘る、と。つまりこの問題を、日本の民主政治はうまく機能しているか、と言い換えるならば、現在の政治とりわけ大震災・原発事故後の政治は、空転ばかりして一向に国の立て直しに成功していない。それどころか、その端緒にさえ就いていないと言わざるを得ない。だからマスコミを含めて、私たち大多数の意見は、日本は政治不在で、有能な政治家が払底している、と考え、そしてそれによってイライラが嵩じての政治不信、というのが掛け値なしの現状であろう。
そこで蟹と甲羅の話になる。つまり国民と政治あるいは政治家の関係はまったくの相似形を成している、と。よく人は、今の政治は政争に明け暮れてまともに国民の方を向いていないと言う。しかしそんな政治家を選んだのは私たち選挙民にほかならない。冷たく突き放して言えば、まさに自業自得、どこにも不満を持って行きようがない。
でも人は言う。これは選挙制度に欠陥があるからだとか、あるいはやたら議員の数だけ多くて、これじゃ審理の停滞どころか税金の無駄遣いである、と。けれどはっきり言ってしまえば、いくら制度を変えようと、いくら議会運営の合理化を進めようと、国民が愚かであったら、選ばれる政治家もまた愚かであり、事態は一向に良くならないはずである。葛飾柴又の寅さんの言い草じゃないけれど、世の中にはそれを言っちゃーおしまい、ということが多々あるが、これもそのうちの一つ。つまり国民はどうしよもなく愚かなのだ。
特に今回の大震災・原発事故以降、日本国民がどれだけ愚かであるか、が白日の下に晒された。もちろん政治家や行政側の不手際・無能力はあったが、そして今もそれは続いているが、奈落の底から見上げてみれば、国民がどれだけ愚かであるか、そして今もそうであるか、が嫌になるほどはっきり見えてくる。じゃそう言うお前は、と聞かれたら、いや私もその愚かな国民の一人です、と殊勝な顔して答えようか? 嫌―だね。
そういう国民全体総崩れ、私の言い方では液状化現象の中で、年齢や性別、あるいは職業・学歴の別なく、必死に流れに逆らった人もまた少数ながらいたことも事実。そしてそれら目覚めた少数者の最後尾に私と美子をおずおずと位置づけます。
何と傲慢な、何といけ好かない、と思われようと言われようと、ウソは言いたくない。
最初の答えが、以上のように総スカンを喰らいそうなものになってしまったのは良いとして(いや良くない良くない)、もっと問題なのは、これでは長編評論の序文の、それも書き出し部分のようなものだということだ。まっ書いたものは仕方がない。次回からはもっと単刀直入で簡潔な言い方をしよう。ともあれ今日のキーワードは「蟹と甲羅」でした。
ナチス総統ヒトラーは、超人的なカリスマ性と演説技術、完璧に練りこまれた演出、宣伝方法を動員し、国家をその手に握りました。党宣伝部長ヨーゼフ・ゲッベルスをはじめとした大衆動員法を知りつくした者たちにより、ナチスは、選挙で合法的に政権を獲得します。少数のエリートによっていかに大衆が操作されやすく、また簡単に大衆が操作されうるかということを実証した歴史的事件です。
オルテガによれば、大衆とは「無個性で周囲の人間と同じだと感じ、しかもそれを苦痛に感じない、むしろ満足感を覚える全ての人々のこと」であると定義されています。大衆が注目されるようになったのは、情報通信手段が飛躍的に発達した産業革命以降のことです。産業革命以降、伝統的な地縁、血縁、政治的枠組み、宗教的枠組みが崩れ、家族、近所付き合い、農村の横のつながりに亀裂が生じ、自分たちの土地や故郷から引き離された人々が、都市へ向かう中で、大衆は、その姿を現します。
大衆の最大の特徴は、その画一性であり、メディアによって、画一的な情報に晒され、大量生産された画一的な食べ物を食べ、画一的な住居に住まい、画一的な就業規則に縛られています。さらに、音楽や映画、スポーツにいたるまで、メディアから流されるおびただしい画一的情報に影響を受けざるを得なくなります。このような画一的な社会で生きる以上、行動も画一的になるのはやむをえないことで、それは社会性を保持するという意味で必要なことになります。
ゆえに、新聞、雑誌、テレビなどのメディア情報に流されず、自分自身で考え、大衆から乖離しても、自分自身の価値観で、思考し、行動することが必要となります。真の民主主義を確立するためには、こうした構図の中に、我々一人一人が置かれているということを明確に認識し、思考し、行動することが必要です。これこそが、オルテガが「大衆の反逆」の中で意図した真の構想なのだと思います。
今日の朝日新聞の一面に福島県の佐藤雄平知事が「政治的判断で再稼働の議論をするのは、被災県として忸怩たる思い。本当に原発事故の厳しさ、実態をわかっているのか」と政府の対応を批判されていました。政府は夏場の電力不足を理由に大飯原発の再稼働の要請を決めました。政府が安全宣言をふまえ要請して結局当面の電力不足解消のため稼働する事になるように思います。この政府を選んだのはわれわれ国民の多くなわけですから「自業自得」ということなわけです。しかし、理論や政策で天下が救えるならば、歴史の興亡は人類の愚かさの表明にすぎないように思います。やはり、人間、有識者が真摯に創造的気概を帯びてこなければ、今の国難は救えないのかもしれません。