先日、久しぶりに訪ねてこられた浜田さんと話しているうち、話題はとうぜん原発事故のことになった。一周年ということに特別な意味を感じてはいないが、それでもいったい自分にとってあれは何だったのか、ということは時々考える。
今なおそのために苦しんでいる多くの人には不遜な言い方かも知れないが、もしあれがなかったら、それ以後得た多くの貴重な教訓を知ることなく、つまり大切な真実に気づくことなく死を迎えたかも知れない、いやその可能性は大であったとは考える。
確か聖アウグスチヌスの言葉に「なんと幸いなる闇、なんと幸いなる罪」というのがあったと思う。つまり闇や罪があることによって、人は光や浄罪を強く求める、という意味であろう。だとすれば、原発事故に遭遇することによって、自分たちの愚かさ、救いの無さが明瞭になったという意味で、原発事故は「幸いなる罪」と言えなくもない。
ただ無念で悲しいのは、声高に叫ばれる「復興」の声の中に、そうした覚醒の痕跡がほとんど感じ取れないことだ。太平洋戦争の敗北と瓦礫の中で一度は覚醒したはずの日本人は、またもやこの「幸いなる闇、幸いなる罪」の教訓を忘れようとしているのだろうか。
浜田さんとそのことについて語り合っていたとき、不意に思い出した丈草、つまり芭蕉の門人丈草、の句があった。いやその時は正確に思いだせずに、ただその意味を無様に紹介しただけだったのだが。実は十年ほど前、このモノディアロゴスで一度取り上げたことがある。短い文章なので、全文を引用してみる。
「 丈草の句
『蕉門名家句選』(岩波文庫)に収録されている丈草の句の中にまた素晴らしいのが見つかった。黄色い鉛筆のマークが入っているので以前読んだときも感心したらしいが、すっかり忘れていた。こんな句である。
水底を見て来た皃[かお]の小鴨哉 (猿蓑所収)
丈草の句でいちばん好きで、またいつ読んでも凄さを感じるのは、
淋しさの底ぬけてふるみぞれかな
だが、この小鴨の句も凄い。冷たい、深緑色の沼の水の感触までが伝わってくる。水底を見て来たのに、何も見て来なかったかのように、さりげなく水を掻く小鴨だが、間違いなく深淵を覗いたし、そのことに深い感動を覚えているのだ。しかしこんなことにいちいち動揺していたら身が持たないと、小魚を獲って生きる日々のなりわいに意識を向けようとするのだが、でもやはりおのれの下に黒々と広がる神秘の存在を意識から振り払うことができない。それは密かな、しかし確かなシグナルを思いもかけぬときにひんやりと発信してくる。」(2003/9/23)
おや、引用したことで、話がかえって分かりにくくなったかも知れない。要するに言いたかったことは、私にとって3.11はまさにこの小鴨にとっての「深淵」であり、慌しくすぎてゆく日々のなりわいの中で時おり密かな、しかし確かなシグナルを送ってくるということである。
アメリカにとってだけではなく世界にとっても9.11がそうであるように、この3.11は日本だけでなく世界にとっても絶えずシグナルを送り続ける「深淵」であるし、またそうでなければならないと思っている。いつものように尻切れトンボのきらい濃厚だがもはや長過ぎる。今夜はこれまで。
東北地方太平洋沖地震を契機に、日本に永住する意思を表明していた日本文学研究者のドナルド・キーン氏は、3月8日日本国籍を取得しました。2011年9月1日には永住のため、来日し「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った。」といっていました。3.11がなければ、日本に永住されることはなかったのではないかと思います。深淵な闇は、3.11以外にも、身の回りに、いろいろなものがたくさん渦巻いています。大切なことは、勇気を持って、深淵な闇の奥底を見るように努め、その本質をよく考えることなのではないかと思います。
古来、世界の様々な文明の歴史は衰亡の歴史でした。そして今また3.11を契機に同じ道を歩みつつあるように思います。自然を相手に想定内は存在しません。人間は確かに順風満帆な人生を望み、豊かさを謳歌しました。しかし、それによって人間は慢心になってしまいました。人間がこれ以上慢心にならないために原発事故があったのであれば『幸いなる罪』と言えるかもしれません。そして、自然を相手に想定内は存在しないと言う「大切な真実に気づくこと」、それが衰亡の歴史を重ねない人間の英知だと確信します。