今日は「道士の塔」のあと続けて読んだ「蔵書の憂鬱」について書くはずであった。蔵書家とはとても言えないにしても、私のようにそこそこ蔵書を持っている人なら誰しもぶつかる問題、つまり蔵書の管理や、自分が死んだあとの蔵書たちの運命について、身につまされるようにして読んだ、その感想を書こうと思っていたのだ。
しかし「蔵書の憂鬱」の近くをぱらぱらめくっているうち「日本人」という言葉がかなり目に付いた最後の文章「ここは実に靜かだ」もついでに読んで見た。現代中国のこの売れっ子作家が日本や日本人についてどう思っているのか気になったからである。ところがそれはずしりと重い内容で、読後いろいろ考えさせられた。この感じは以前、韓国の詩人金芝河の文章を読んだ時のそれに似ている。つまり私自身が日本や日本人について持っている否定的見解など木っ端微塵にされてしまうような、実に根源からの重く鋭い批判だったのである。
話は余秋雨がシンガポールの友人に案内されて当地の日本人墓地を訪れた時の感懐である。そこには軍人たち、日本人慰安婦たちが葬られている。地元の人たちにはその存在すら忘れられているような静かな墓地は、しかし今でも団体で墓参りにやってくる日本人が途切れることはないらしい。それはいいとして余秋雨が着目しているのは、軍人たちの墓が生前の階級序列そのままの大きさ立派さで並んでいることである。1937年7月7日の盧溝橋事件のあと華北方面軍司令官に任命され、さらに1941年には南方派遣軍総司令官となった寺内寿一元帥が死後も亡霊日本軍の指揮官なのだ。
個々の軍人たちの霊を冒涜するつもりは全くないが、しかしその墓を構成する思想は、余秋雨でなくても、滑稽かつ愚劣であるとしか言いようがない。だが悲惨かつ哀れなのはもう一つの墓の群れである。つまり日本軍の後になり先になりして南方に渡って行った慰安婦たちの墓である。軍人たちがかつての階級や本名を死後も誇っているのとは対照的に、彼女たちは故国の縁者たちに恥辱が及ぶことがないよう、ひたすら「徳操信女」「妙鑑信女」などの戒名の後ろに隠れている。
この二つの墓群についての感慨だけで終わっていたとしたら、かなり後味の悪さが残ったに違いない。しかし実はその墓地にはもう一種類の墓があったのだ。それについては明日報告する。
「談話室」
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