体感(その三)

 で、結局ウナムーノはこのエッセイで何を言わんとしているのか。要するに、生理的なるもの、さらには心理的なるものにおいて体感を持たない(感じない)人がいるように、精神的・霊的なるものにおいて、自分自身の実体性の意識を持たない人がいる。前者はもちろん異常であり病者とみなされるが、後者は世にごまんといて、よほど注意しないとそれと見分けがつかない、ということであろう。たしかウナムーノは別の箇所では、そういう人を甲殻類に例えていたはずだ。

 ところで、体感(cenestesia)という言葉に話を戻すが、あのフェラテール・モラの四巻に及ぶ浩瀚な『哲学事典』にも、また平凡社の『哲学事典』にも出ていないのに、小学館の『西和中辞典』に出ているし、モリネールの二巻本『用法辞典』にもグリハルボの『実用辞典』にも出ているのはどうしたことか。この言葉はもっぱら生理学や心理学で使われるからであろうか。英語の辞典ではどうか。小学館の『ランダム・ハウス』には、スペルは少し違うが(coenesthesia)、こう定義されている。「体感:自己の健康・精気・虚脱感などの体調を感じさせる基礎となる感覚の総称」 なるほど、かなり詳しく分りやすい説明だ。

 一方、グリハルボの語義説明には「有機体のvegetativoな機能の意識をもたらす内的感覚の総体」とある。Vegetativo を「植物的」という意味しか知らなかったので調べてみると、「生長・成長に関わる」とか「自律神経の」という訳語にぶつかった。少し抽象的ではあるが、ランダム・ハウスの説明と同一線上にあることは間違いない。

 それではいま話題のウィキペディアではどうなっているであろうか。スペイン語版ウィキペディアを検索すると、語義の説明はグリハルボと大同小異だが語源の説明がなされている。すなわちギリシャ語の koinos(共通の)と stesis(感覚)の合成語。しかしさらに読んでいくと、気になる説明が載っている。つまりその感覚は主に propiocepcion と関係しており、そしてそれは「触覚も嗅覚も、さらには聴覚と視覚も介入しない内部感覚によってもたらされる」とあるのだ。味覚が抜けているのは分るとしても、それでは体感は個々の感覚の総体あるいは総合ではなく、更に高度な(?)もう一つの感覚ということになるのか。それはどこで知覚されるのか、脳の中のある限定された部分でか?

 すると問題は大脳生理学に行き着くのか?それではもはや私の手に負えない領域に入ってしまう。ただ私でも分かるのは、この体感が「生きる」に当たって実に重要な感覚だということである。そしてそれは宇宙感覚とか「気配」と密接に結びついていること、現代人よりむしろ古代人や、現代でもいわゆる未開人の中に強く感じられる感覚だということ。

 ところで先の説明の中にあった propiocepcion だが、結局どのスペイン語辞典にも載っていない。悔しいけど(?)、スペイン語版 Wikipedia を調べると、「筋肉の所在についての感覚」と出ている。ところが最後の部分で、しかしそれは cinestesia(運動感覚)とは関係ない、とも書かれているのだ。これでは同語反復であり循環論法とはならないのか。そも、ウィキペディアとは何者?

 ウナムーノのエッセイとは離れて「霧」の中に迷い込んでしまった。探索はとりあえず今のところはこの辺で中断しておこう。いずれまた。

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佐々木 孝

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴い父祖の地・福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」の名を冠したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。洗礼名フランシスコ。
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