さて新しい年である。この「なんともなさ」を、俳句詠みだったら、なんとか洒落た言葉で表現するであろうが、その才がないので、「さて新しい年である」としか言い様がない。実に穏やかな新年、風もなく麗らかな日和である。
今年の計は、抱負は、などと真面目な顔で話す気にもならないが、でもガンバる。
まず仕事のこと。オルテガの『大衆の反逆』とっくに翻訳が終わっているはずなのにいつ出るのか、と聞きたい向きもあろうかと思うが(そんな「向き」はないか)、現在はすべて編集者まかせに進んでいる。はっきり言うと、編集者の「手」が入っている段階、それでも第一部はもう終わりに差しかかった。むかしだったら、誤訳の場合ならいざ知らず、例えば副詞の位置とか言い回しのことで他人さまの手が入るなど、とてもじゃないが我慢できなかったであろうが、今回(に限って)は、「それもあり」という考えになっている。編集者には「異種格闘技」と心得ているから、どうぞ存分に手を入れて結構、と伝えている。
異種格闘技とはまた奇異な例えだが、編集者が想定する「今どきの読者」に理解しやすいツルンとした訳文に仕立て上げるなら、どうぞよろしく、という気に(白状すれば一時はかなり抵抗感があったが)落ち着いたのである。それには、翻訳と離れた自分の文章にそれなりの自信を再確認することができたからだ。オリジナリティーということなら、佐々木(あるいは貞房)の文章を見てもらいたい、と居直る(?)ことができるではないか、と思い直したのである。
だから、最終稿の前に再度の推敲はするが、原意から離れないなら、よほどのことがないかぎり、編集者のチェックを喜んで(?)受け入れようと思っている。まあ今年中には出版にこぎつけられるであろう。
次にこの「モノディアロゴス」のことである。このところ中断があったり(それもかなり長期にわたっての)、番外編がやたら入ったりで、ちっとも安定しない。「青銅時代」の平沼氏には、最近のは『モノディアロゴス(Ⅰ)』の創造性と緊密度に遠く及ばない、とはっきり言われた。自分としては、それらすべてがモノディアロゴスなんだよ、などと滅茶苦茶な言い訳をツブヤいてはみるが、悔しいけど、その苦言認めなければなるまい。
ともかく書くこと、それも続けて書くことが、結局は質の高さ回復(?)の要諦だとは思っている。つまり書くことにおいては、「悪貨は良貨を駆逐する」という経済原理は通用せず、「良貨は悪貨から生まれる」という原理が妥当すると思うからだ。何のことはない、「玉石混交」が常態だということ。
研究の方は?スペイン思想に関しては、そろそろ『大衆の反逆』の解説文を書かなければならないので、その準備の過程ですっかり錆付いた記憶や勘を取り戻すつもりである。そして「近代」をめぐるスペインと中国の思想問題を、魯迅や竹内好を読みながら探ってみたい。
年頭にあたっての大風呂敷はこの辺で。以後、大口を叩かないで地味にやっていきます。