肩書きの落とし所

昨日の「朝日新聞」福島版の「ふみの記憶 ふくしま文学再訪」というコラムに、「埴谷雄高『無言旅行』 幻の故郷 小高町」が出ていた。先日、福島から取材に来られたUさんの署名入り記事である。あの日以来、福島版を注意して見るようになったが、時おりUさんの書いた特集記事が載る。その度に読んでいるが、若いのにといっては失礼だが、とてもいい文章を書かれている。今回の記事も、なかなか趣のあるまとめ方をされている。
ところで文中私は「文学研究者」となっている。「文学研究者」と紹介されたのは初めてではあるが、確かに今の私の肩書きはビミョウーだろうなとは思う。元大学教授というのも、過去の看板を引き摺っているようで嫌だし、かと言って「それでは何者?」と訊かれれば、正直返答に窮する。
これまでいちばん時間をかけてやってきたことから言えば、「スペイン思想研究家」、「スペイン文学者」あたりが無難かも知れないが、この田舎で、しかも最近相当期間論文を書いていないことを考えると、その二つとも「看板に偽りあり」、「羊頭狗肉」の謗りを免れまい。
要するに、肩書きとか評価などというものは、特に私のような退職者の場合、自分から名乗るよりも他人から貼られるレッテルに甘んじるしかあるまい。もちろんこれまで以上の、あるいはこれまでやってこなかった新しい分野で、特別目覚しい仕事をしない限りは、ということだが。

問題は、それでは自分自身これから何をするつもりか、ということであろう。これまでの仕事に最終的な仕上げを施す、というわけにはいかない。どの仕事もすべて中途半端で、しかも土台がしっかりしていないので、仕上げの前に改めての基礎工事が必要だからである。
今回の記事の中で、「文学研究者」だけでなく、今までなかった肩書き(?)が付けられていた。「(六十四)」という数字である。うーん、新しいことに挑戦するにはちょっとビミョウーかな。でも頑張るっきゃないだろう。

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