埴谷雄高生誕百年展

 午前中は小雨もよいの曇り空だったが、インターネットの予報どおり昼過ぎから晴れて来た。それで思い切ってばっぱさんを連れて小高の浮舟文化会館に行ってみることにした。埴谷・島尾記念文学資料館に「青銅時代」第49号を届けることや、確か今週あたりからそこで開催されるはずの「埴谷雄高生誕百年展」を見るためである。バッパさんは二年前の暮には貧血症とかで一ヶ月近く入院したが、その後は特に悪いところもなく、冗談半分で言っていた「百歳越え」はにわかに現実味を増してきた。

 元気なのはいいが、毎日の訪問だけでは足りなく、時おりそれとなく、いやバッパさんの場合は臆面も無くだが、車でどこかに連れて行けと要求する。妻を連れての訪問は、時に施設の玄関先で靴からスリッパに履き替えさせることにひまどり(視空間失認という症状らしい)バッパさんの前にたどり着くときは疲労困憊という気分になっていて、バッパさんの要求にそう簡単に応じることなどできない。

 だから今日のような遠出は日ごろの埋め合わせという意味もある。冬至を過ぎたとはいえ四時近くには暗くなるので、二時ごろの出発は帰りのことも考えるとちょうどいい。小高までの旧国道は田んぼや低い丘陵地を抜けていくので、いかにも相馬の田舎といった風情があり、もっと海岸線に近い六号線より好きだ。しかし今日は妻を後部座席に、バッパさんを助手席に乗せたので、バッパさんは一気に少女時代に戻ったようで、しきりに昔のことをしゃべっている。聞くともなしに聞いていると、たしか井上の本家の嫁(といってもうとっくの昔に他界している)はこの辺の農家の出だとか、昔はこの道を何キロも平気で歩いたもんだ、などと機嫌がいい。

 浮舟文化会館はもしかして今日から年末の休館日だったのかも知れない。しかし資料館の寺田さんが特別に展示室を開けてくれ、おまけに付きっ切りで解説までしてくれた。台湾新竹での幼年・少年時代の埴谷さんの写真は、どこかで見たものもあるが、かなり珍しい写真も混じっていて興味深い。バッパさんの車椅子を押しながら、同時に妻の手を引っ張りながらの見物ではゆっくりも見ていられなかったが、今回の展示でいちばん興味を惹かれたのは、確かNHKの音楽番組だったかを録ったビデオテープのラベルだ。ものすごく小さな字で埴谷さんが曲目(?)やら演奏者、もしかして感想まで、ぎっしり記録しているのだ。

 来春三月まで開催ということなので、第二土曜の文学講座のときにでも、虫眼鏡持参でゆっくり見ることにしよう。あの吉祥寺のお宅での一人住まいの余暇に、埴谷さんが私と同じく小さな手仕事を一生懸命やっていたなどと考えると、またいちだんと埴谷さんが身近に感じられた。

 埴谷さん、伸三君、マヤちゃん、そして私の四人で東京から二泊三日の小旅行(埴谷さんの書いた『無言旅行』の旅)で、埴谷さんが撮った野馬追いの写真は資料館の外のロビーに展示されていたが、そこには案内役を買って出たまだ元気なバッパさんの姿も写っていた。風はすこし冷たいが年の瀬にはめずらしい暖かな午後の日差しの中を、40数年も前の懐かしい思い出に浸りながら帰ってきた。

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佐々木 孝

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴い父祖の地・福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」の名を冠したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。洗礼名フランシスコ。
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