奪われた野にも春は来るか


私たち夫婦が登場するのは二回、16分10秒から、そして50分10秒からです。もちろんお時間があればぜひ全編を見てください。

 以下のものは、鄭周河(チョン・ジュハ)さんの昨春の日記である。本日、翻訳者の柳裕子(ゆう・ゆじゃ)さんから送られてきたものだが、本ブログをお読みの皆さんにも読んでいただきたく、折り返し柳さんを介して鄭さんのご了解を得、少し長いものだがその全文を以下に掲載することにした。2014/8/24
 
        ★ 南相馬日記1 ★
 
1. 記憶、記憶は実に、時間とともに私から遠ざかっていく。最後に南相馬を訪れてからすでに一年がすぎた。2011年11月に初めて福島を訪れてから、私は今に至るまで何度かその場を訪れた。あまりにもよく知られている事実は、むしろ平板な感じを与えるものである。
 フクシマが持つ、時代/歴史的な誘惑は、忘却である。忘れたい、忘れなければならないという重圧感が、他のすべてのものを包み込んでいる。しかし、私たち/時代の責務は、同時に記憶である。記憶は証言を欲するが、時の流れに紛れて色あせていくものだ。これが、私/私たちがそこに行き、それを両の眼で見るべき理由であり、同時に私の写真の存在理由でもある。
 そうして二年の間、折にふれそこに通い、そこで撮影した写真を展示し、本も出版した。韓国で二度、また日本で六度の写真展をひらき、新たにフクシマを撮影し続けている。
 私はフクシマを南相馬という町から実感する。南相馬は、東京電力福島第一原発から北に20kmほど離れたところにある小さな町である。同時にここは福島県の県庁所在地である福島市から東に約70km離れており、海に面した場所である。私はここに深い愛着をもつようになり、今後も命の続く限り訪れつづけるつもりだ。
 今書いているこのささやかなエッセイ(小文)は、2013年3月に南相馬を訪れた記憶であり、その記憶の中に皆さんを招待したいと思う。

 帰る日、空港での出来事にはひどくとまどった。
 旅の最後の朝を気楽に、濃密な時間を過ごそうと歩き回った東京都内では特に変わったことはなかった。ただ、高層ビルの谷間に吹く風は普通には歩けないほど強かった。東京の東側、太平洋から吹いてくる海風は、道端の自転車やオートバイを押し倒し、ひょっとしたらビルの上から看板が落下してこないかと不安にさせた。でも幸い何事もなく、多少足取りが悲壮になりはしたが、無事にホテルに戻り空港に向かうことができた。
 成田空港はふたつある。第一ターミナルと第二ターミナルに分かれている。通常、韓国の旅行客は、東京で「空港行き」の電車に乗れば、何の疑問も持たずに終点まで行き、終点に着いたら降りる。しかし、搭乗する飛行機がJALの場合、一つ手前の駅で降りなければならないのだ。同行していたイ・ドングンさんは、私と一緒に終点の第一ターミナルでまで行き、荷物を引き、インフォーメーションでJALの場所を確認するまでそれを知らなかった。 幸い時間に余裕があったからよかったが、下手をしたら飛行機に乗り損ねるところだった。どうにかこうにかイ・ドングンさんを第二ターミナルに見送り、私は自分が搭乗するDALのカウンターを探した。
 荷物を預け、座席指定を受けるためのカウンターには長い列ができていて少々訝しくはあった。突然、DALの職員が「ソウル行きの方はいらっしゃいませんか?」と大声を上げて私の目の前に来た。私が手を挙げると、こちらにこいという手振りをしながらロープを外し、並んでいる人の合間を抜けて前に行けと言う。 ありがたい。ソウル行きがこんなにスムーズだとは。もしかしてソウル行きの客は優待される法でもできたのか? そして、カウンターでパスポートを見せ、手荷物を計量器に載せた。ふとカウンター横の柱時計みると出発時刻の2時間半前だった。ふぅ〜、長い休憩時間だな、と思っていると、目の前の女性係員が「キャンセル!キャンセル!」と言って私のパスポートを押し返した。話をよく聞いてみると、強風のため本日のソウル便はすべて欠航になったという。すなわち、足止めをくらったのだ。

2.
 鎌倉さん率いるNHKチームとともにミニバスで南相馬に行くふた月前、そしてそれは今から一週間前の3月6日、私は成田で降り、東京からレンタカーで一人南相馬に向かった。 すでに何度か通った道なのでむずかしくはなかった。ただ、左側通行に今だに慣れないため、スピードがどうしても出せないだけだった。
 延々7時間かけて南相馬に到着した。夕方も遅い時間になっていた。西内さんが手配してくれていたホテルを目指した。西内さんは、すでにホテルのロビーにいらっしゃり、私を歓迎してくれた。小柄で、純朴に生まれついたようなお姿だ。
 私が部屋に荷物を置いてロビーにもどると同時に、西内さんは食事に行こうとおっしゃった。もちろん、身振り手振りでのやりとりだ。 私は日本語を話せず、西内さんは韓国語も英語も話されない。しかし、今日初めて出会ったにも関わらず、私たち二人の顔と身振り手振りにぎこちなさはなかった。たとえ、もし私がいくらか日本語を勉強していたとしても、口をほんの少しだけ開いて話す西内さんの日本語は、いずれにしろ聞き取ることはできなかっただろう。あとでわかったことだが、東北弁という方言をお使いだそうだ。西内さんもやはり、少しの韓国語がお分かりになるより、あるいは英語をいくらか話されるよりも、いっそのこと今までの経験とお互いを理解しようとする気持ちで通じ合うやり方に馴染みをお持ちのようだった。
 店はホテルからそれほど離れてはいない小さな通りにあった。 そこは地元の人が出入りする、伝統と歴史のある店だと一目でわかった。扉をあけて入ってみると、小さな店に客がもう数人いて、ほろ酔い気分でにぎやかだった。
 私たちは案内された小さな畳の部屋に入った。向かい合わせに座ったが、西内さんは休みもせずにさっそく何かを教えるように話してくれて、確認して、説明もしてくれたが、私には全く分からず、ただただ西内さんの温かく優しいまなざしと真心のこもったお気持ちだけが伝わってきた。
 寿司がでてきた。一枚の板にぎっしりと盛られていたが、二人分には少々もの足りない感じだった。ビールを飲むか?という西内さんの言葉に感激して何度もうなずいた。はい!はい!
 西内さんはご自分の分の寿司まで私に薦めてくれた。 きっと私がかぶりつくようにしてあまりにおいしくいただいてしまったために遠慮された様子だった。 私がまた遠慮なく平らげてしまうと西内さんは店の主人を呼んだ。そして、何かをまた注文されたようで、しばらくすると出てきたものは、「寿司のような格好をしたキムパブ(キムパブは韓国の海苔巻き、一般的に海鮮は入らない)」だった。3人分よりももっとあるかと思えるほどの「キムパブ寿司」が出てきた。
 西内さんとの初対面はこんな様子だった。
 現在73歳でいらっしゃる大先輩。ここ南相馬に、生まれてこのかたずっと住んでいらっしゃる生粋の地元民だ。2011年3月11日以後も故郷を離れず守っていらっしゃる。彼は今、自分が繋がるへその緒の端であり、その存在理由でもあるここ南相馬の再生を夢見ている。
 彼の持つ生まれつきの肯定性は、あるいは愉快な楽天性は、彼の健康的な活動力の根源でもあり、そしてまた、未来の子どもたちにふるさとをもう一度返してやらねばなるまいという彼の一貫してゆるがない信念のエネルギーそのものでもあるだろう。
 遠い他国からふらりとやって来た異邦人に彼が見せてくれたのはこんなもてなしだった。

3.
 南相馬は私にとって対象であり出発でもある。
 すでに韓国で原子力発電所の周辺に暮らす人々の姿を「不安, 火-中」というタイトルで撮り続けてきた私としては、この南相馬の姿はかなり見慣れたものである。 破壊された東京電力福島第一原発の姿をまだ自分の眼で見ることはできていないが、たとえ 3・11以後の南相馬/福島の姿しか知らなくとも、原発周辺の町が持ついくつかの共通した雰囲気を感じさせるには十分である。
 どの国だろうが、大きな資本または権力が、国益と市民の安危を前に置いて何かをする時には、大体において同じような過程を経る。なによりも建設地の住民の同意を得る過程と、受け渡される利益の大きさと形態、そしてこれを取り巻く住民の態度がそれである。南相馬も例外ではなかった。奥深くに存在する不安を根源的に持ちながらも、外にはそれを見せないでいる。他の農/漁村と比べると、社会/国家の配慮がより多く施され、その恩恵の結果は私が経験した韓国の原発周辺の姿と酷似している。
 いや違う。韓国の姿はこれにすら及ばない。 特に建設後、相当年数が経つコリ(釜山広域市機張郡長安邑古里)、あるいはヨングァン(全南霊光郡弘農邑城山里)の原子力発電所周辺は、未だに住民と原発(韓国水資源公社)側との疎通はなだらかではなく苦痛の姿が如実に残っていたりする。
 このように対象化された一つの町の姿が、私の制作の出発と重なり合う姿は、まるで発電所で電気がつくられたあと外に出ていくようで、ふたたび個別の家庭内に入っていくありさまととてもよく似ている。人類はまだ線を通して電気を運んでいる。この線は、発電所を出て、もう一度どこかに入っていく。即ち、電気とは外に入っていくのである。この簡単な過程は、私が南相馬にて、古くからの韓国と日本の間の歴史を再び取り出して見てみる契機にもなった。
 現在の現象が過去の現象を呼び出すと現在と過去はまるでメビウスの輪がもつ構造のように時間の前後を分けることがむづかしくなる。
 西内さんが私にしてくれたもてなしの香気は、私の中に入り、そしてまた南相馬に向かった。その次の日の朝から東京に戻る日の夜更けまで、私は西内さんと共に動いた。眠るとき以外はずっと一緒だった。
 西内さんは、ここ南相馬の地理にとても明るいだけでなく、写真についても多くの知識を持っていらした。よって、私がここで作業をするにあたって、よいビューポイントを紹介してくれようとした。当然であろう。ここで生まれ育った方なのだから。しかし、ただ故郷だから、知っている場所だからと異邦人の私に案内を申し出てくれたのではなく、その異邦人がもう少し内密な場所をより詳しく真摯に見つめられるように配慮を忍ばせてくださったのだと推測する。おかげで、私がいままで何度かここを訪れながらもいくことができなかったところを西内さんの大きな乗用車での案内でしっかりと見ることができ、どんなところが前と変わりない姿のままでいるのかもしっかりと見ることができた。

4.
 日本政府当局は2013年から第一原発周辺の10km地点までを解放した。
 それまで制限区域が20km地点までであったために入ることができなかった所まで出入りが許容されたということだ。
 その中でも特に西内さんが私に心を込めて案内してくれたところは小高地区であった。 あいかわらずもの寂しい姿のいくつかの神社を訪れることができ、海につながれた廃漁村の姿は、少しだけ心を開いて眺め見れば以前の平和を感じることができた。私は、これからはここに今も住み続けている人たちの姿を少しずつでも撮影し続けたい、という希望を、手振りと片言の日本語でなんとか伝えようとした。
 ここ小高にはまだ人の姿がほとんどなかった。しかしあちこちで整備し復興させようという様子は見られた。ややもすれば、ここもやがてあたらしい姿に生まれ変わるだろう。時折、建物の壁や出入り口の上に見える「がんばろう 南相馬!」という語句がそれを証明するかのようだ。
 しかし私の眼にはここの姿は何かが一つ欠けているように見える。
 韓国には「牛失って牛小屋直す」ということわざがある。どういう意味かと言うと、事前に準備をしないで事が起きた後になって初めて驚き、どんなことにも備えようとすることをあざ笑う言葉だ。しかし、現実的には、牛を失ったら牛小屋を直して当然だ。もしそうしなければ、次にまた同じ失敗をおかしてしまうからだ。しかしそれよりもっと重要なことがあるのではないだろうか?
 牛を失って、牛小屋を直すよりまずしなければならないことは、一体どうして牛を失うことになってしまったか原因をよく探すことであろう。とても辛く苦しいことだが、自分の問題/失敗を直視することは非常に重要だ。それこそが今ここ南相馬に欠けているのだ。
 2011年3月11日午後に起きた津波は過去の「(一回性の)事件」と言ってしまえるが、それにより発生した放射能問題は今を越えて未来にまでつながる「現在進行」の問題になった。
 西洋の時間論で考えると、単に今から未来につながる単線的な問題だろうが、東洋の輪廻という時間論で考えれば、未来と現在は繋がっているものであり、よって「今」は終わりのない「今」であり、これは即ち「未来」でもある。また、未来に到来する問題が過去から出発してつながるものだとしたら、過去は絶えず未来に顕現するだろう。
 再び、今の南相馬がするべきことは、まず牛小屋を直すよりは、冷徹に、より深く、流出している放射能の内側を見つめなければならないのではないか? そこに含まれるいくつかの名詞(よく知られている名前)すなわち、政治、権力、地域、お金、欲望、無関心、傲慢、喪失、階層、偏見等々を直視し、何に由縁して今回の事態が起きたのかを確かめる「事」である。
 ひょっとして、西内さんは友人である佐々木先生「によって」或は「とともに」この事をしていらっしゃるのかもしれない。
 いや、そうしていらっしゃるのだ。

5.
 佐々木先生は、西内さんと小学校からの友人だ。いわば幼なじみである。 お二人の友情がどれほどの深さを持つのか私には推し量るのがむずかしい。しかし、佐々木さんの本『原発禍を生きる』を読むと、お二人の長い友情はかなり独特なものだと確信できる。
 佐々木さんは、三世代でお住まいだ。そして、彼はスペイン思想家であり、人類学者だ。
 西内さんが体ならば、佐々木さんは頭だ。思惟が深く精巧でありながら太い直線を予感させる。
 南相馬についた次の日、私と西内さんを招待してくださったご自宅での歓待は、彼の孫の愛ちゃんが私に見せてくれたありったけの好意に象徴される。息子さん夫婦と病身の妻、眼に入れても痛くない孫娘が、放射能の磁場の中で思惟の重い重力に打ち勝ちながら共に暮らしているのだ。
 佐々木さんのお母さんが建てたという家は、素朴でありながら実用的に設計されていて、それに加えて佐々木さんは応接室をご自分の書斎にされ、そして彼が愛用するパソコンは、妻が寝ている寝室の窓際に置き、ここ南相馬の「今」を電波を通して世界に知らせている。
 佐々木さんが私に与えてくれた深い印象は、彼の暮らしが担っている圧倒的な困難さや苦痛のただ中にありながらも、その苦痛のそぶりや表情を全く見せないところにある。彼は、いつもそうしてきたように、あるいは、これからも常にそうであるように、変わりない姿で人に接する。
 彼の顔に込められた真摯さは、きっと若い頃からの深い思惟の積み重ねによるのであろう。決して今回の事態がもたらした苦痛の結果ではない。彼が、「魂の重心」を強調し、渦中に立って外に怒りの声をあげる時でさえ、彼の表情はゆるがない。
 西内さんが「海」ならば、佐々木さんは「山」である。彼が孫娘の愛ちゃんをどう教育しているのか知らない。しかし、愛ちゃんが私に見せてくれるどっしりとした好意はきっとおじいちゃんの温かい教育の賜物と思える。その上、愛ちゃんのお母さんの真心こもった料理と息子さんの落ち着いた振る舞いは、恐縮しながら訪問した異邦人の心を温かい感動に包んでくれた。これもまた佐々木さんがご家族にもたらした温かい教育の結果だろう。
 西内さんが、手土産に持ってきた一升瓶はもうそこをついてしまった。半分以上、私が飲んでしまったようだ。

6.
 翌日は、佐々木さんと共に三人で「10km」圏内を旅した。無線塔は、前の日にも西内さんと見に来たが、再び訪れてみた。
 無線塔。新しく発見された象徴であるかのように、何度かにかけて佐々木さんの説明があった。
 私の英語力が足りず、佐々木さんの英語での説明を明確に理解することはできなかったが、少なくとも、塔がもつ歴史の骨組みは理解できた。
 私には、彼が説明してくれた無線塔の歴史よりも彼の幼い頃の話がより心にせまった。無線塔が何なのかよく知らなかった子どもの頃、よそに出かけて帰ってくる時、遠くから無線塔が見えると、「あ、帰ってきた。もうすぐ家だ」という安堵感を覚えたそうだ。
 それは、まるで、私の子どもの頃の記憶のようだ。 私が生まれた仁川には有名な公園があった。自由公園だ。年を重ね歴史を学ぶまで、私はその公園の名に一度も疑問を持った事がなかった。ただ「自由公園」だと思っていた。そして、公園のもっとも小高い場所には、マッカーサー将軍のりっぱな銅像があり、私たちはその公園にいくといつもその周りで遊んでいた。その上、そのりっぱな将軍の姿に欽慕の気持ちをいだきもした。しかし、朝鮮戦争とマッカーサーと原子爆弾と北朝鮮軍と中国共産党軍と国連軍と米軍と李承晩と日本軍とアジアを少しずつ学んでいくと、子どもの頃のその記憶が徐々に歪み始めた。
 それは、佐々木さんが無線塔についてのおぼろげな記憶の中に歴史性を代入する瞬間と同じだ。当時、200mの高さの無線塔を建築するためには多くの人の危険と犠牲が前提にあったことを幼い頃には想像もしなかっただろう。でも、今、歴史の中に心を寄せて知る真実は、その塔の建設には、死刑囚と朝鮮から徴用されてきた人々が多数参与していたのだ。
 佐々木さんは、それを苦しい心境で直視し、反省とともに東南アジアと日本帝国主義を掘り起こしながら、ご自分/日本の責務を重くうけとめ、同時に連帯の手を差し出そうと力をつくしていらっしゃる。
 幼い頃の歴史不在のマッカーサーの銅像と今の私は、未だもって和解ができないでいる。

7.
 佐々木さんは私に多くの話をしてくれた。しかし、中でも彼が特に自負心を持って聞かせてくれた話は、南相馬出身の文人たちの話だった。これはもちろん、この地域の郷土博物館でも扱われていることであり、また関心がある人ならば誰でも知っているほどの有名な文人たちでもある。
 それだけではなく、南相馬市内の中央図書館に行けば、彼らの作品がもれなく所蔵されていて誰でも容易に借りることができる。また、図書館の西側廊下の入り口には彼らの肖像写真と略歴、主要作品の概要が大きなボードで常設展示となっている。しかし、印象的だったのは、このようによく知られていることを佐々木さんがとても慎重に真摯に説明することだった。このことは西内さんも同様だった。私たちが小高へともに訪れた時には、ある文人の墓を訪ね、短い時間ではあったが墓参りもした。異邦人である私を連れてだ。
 このお二人の態度が象徴するものは何か。どうしてこのお二人は、今ここで南相馬が遭遇している困難や、或いは進むべき方向についての話よりも、この土地出身の文人や学者たちがどんないずまいで多くの作品を「ここ」で生み出したかを話すのか?ただ、過去の輝かしい姿を想起しているのか?
 お二人が望んでいるのは、「単純な自慢」でないならば、それはきっと「根に対する切望」であろう。歴史を回帰し過去の美しさを誉め称えるのでなく、この地が今の困難を踏まえて前に進むために必要なものがあるとすれば、それは「まっすぐな視線」を維持することができる「思惟の滋養分」であるだろうことをお二人はよくご存知だからこそそうなさるのだと思った。滋養分の供給は当然「根」から始まる。深い根の固い結束は、吹く風や吹雪が直面しようと揺らぐことはない。その根を探し確認し私の中に移植された時「今」「ここで」「未来」を夢みることができるだろう。
 ああ、佐々木さん、西内さん!

    2013-03-26
                 鄭周河

奪われた野にも春は来るか への12件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     先日、東松山市で開催された鄭氏の写真展に行った時購入した鄭氏の写真集を改めて見ていて一つ疑問に思ったことがありました。この写真には冬と秋の自然の風景と津波の爪あとが残っている海岸沿いの写真はありますが、春と夏の写真はありません。何故なのか。鄭氏は六回も福島を訪れているのに、何故、春と夏の写真を撮らなかったのか。

     鄭氏は先ずテーマを決めてから写真を撮るやり方をしていると言われています。テーマとは「奪われた野にも春は来るか」という李相和の詩です。テーマには春があります。春には、韓国語で季節の春以外に直視する、考え抜くという意味があると説明されていました。受動的に春を待つのではなく、自分から掴み取ることが大切だと言われています。

     ふと、2012年12月31日「冬来たりなば」の最後で先生がイギリスの詩人シェリーの『西風に寄する歌』の一節を引用されていたのを思い出しました。

     If winter comes, can spring be far behind ?

     私の疑問が何となくわかってきました。恐らく、鄭氏は写真集に写した福島の冬と秋のありのままの自然の風景を見る側が直視し、その意味を考えて生きていけば、自ずとその写真から春が訪れることを見る側に予感させる意図があったんじゃないかと私は想像しました。そのためには、立ち止まっているのではなく、先生が繰り返し言われているように、その日その時を楽しんで生きていく、つまり、春を自らが掴み取る生き方の大切さを鄭氏は写真集を見た人に示唆したんじゃないかと思いました。

    • fuji-teivo fuji-teivo のコメント:

      阿部さん、いつも書き手さえ(あるいはだからこそ?)気付かない卓見をありがとうございます。鄭さんにも知らせたくて、NHKのディレクター氏に鄭さんに連絡方依頼したところです。なんとか届けば嬉しいのですが。佐々木

  2. 阿部修義 のコメント:

     先生、お返事ありがとうございます。東松山市の写真展で直に鄭氏と会った印象は素朴な決して自分を出すようなギラギラしたところのない人という感じでした。韓国の原発がある周辺の写真と福島の写真と比べれば誰の目にも福島の写真には人がいないという指摘が大方の人の意見でしょう。私も最初はそう思いました。しかし、その意味を説明して写真として見せても福島の人たちの心には何にも響かないんじゃないでしょうか。今回の「こころの時代」を拝見して、鄭氏が貧しい幼少期を過ごされ、苦学され写真を学ばれ、写真家になるためには、撮る対象となる人間のことを学ばなければならないと哲学まで、その学問領域を広げていることに私は驚きました。そういう幅広い学問が礎になって、鄭氏は自分の写真を見て相手がどう思うか、何を感じるかという所に力点を置いて撮っていると私は思いました。つまり、福島の人たちのこころに響く写真というところが鄭氏にとって重要だったはずです。音楽や絵画、文学にしても根源に映し出されるものは、その人の人間性だと私は思います。鄭氏の人間性から考えても写真の意味するものは、先生が感じられた通り希望であり優しさ
    が根底にあることから私はそういうふうに解釈しました。

  3. 阿部修義 のコメント:

     最後に一言付け加えます。鄭氏は私たちが持っている写真というもののイメージを「動かすことの出来ない本質」つまり自然と人間の心との融合を写し出すことによって写真を芸術の領域にまで高め、そこに普遍性、さらに普遍的価値を見る側に伝えたかったと私は思いました。

  4. 阿部修義 のコメント:

      余滴

     人間は自然を離れ文明化するにつれて、自らの人間性(人間らしさ)を消失してしまったように思います。自然の力、自然の摂理の前では人間は無力なことを悟って、人間性を見つめ直し、万物のあるべき姿を心で深く感じれば、原発がいかに不自然なものかが見えて来ると思います。鄭氏が「根源は人間です」と最後に言われた言葉に全ての問題の答えがあるように思います。

  5. 島貫真 のコメント:

    「奪われた野にも春は来るか」
    のドキュメンタリー作品を今観たところです。
    鄭周河さんの静かな、そして深いところからやってくる微細な、しかし確かな声の響きは、その深い思索に支えられて、聴き手の胸の中で共振作用を起こす「強さ」をはらんでいる。
    深く強い共感を抱くとともに、その「困難」さも同時に伝わってきて、胸が凍りそうにもなります。

    別の記事ですが、
    「ネイションでもなく、ステイトでもない、カントリーかな」
    という佐々木さんの言葉に惹かれて、ここ「モノディアロゴス」にたどりつきました。
    『原発禍を生きる』
    読ませていただきます。

    ちなみに、鄭周河さんのこの写真はまだ日本では出版されていないのでしょうか。

  6. 柚子 のコメント:

    島貫真さま
    「奪われた野にも春は来るか」の写真集でしたら、写真展の会場(次回は沖縄とか)で販売されますし、写真展のブログでも販売予定があるようですよ。
    写真展のブログ 
    http://ubawaretanonimo.blog.fc2.com/blog-entry-17.html

  7. 島貫真 のコメント:

    柚子さん、ありがとうございます。
    販売開始されたら注文しようと思います。

    • fuji-teivo fuji-teivo のコメント:

      柚子さんに島貫さん
       ネット社会にいわゆるマナーがあるのかどうかは知りませんが、それを利用する以上、少なくとも私が最低限守って欲しいのは以下のことです。すなわち、コメント欄はいわば母屋の軒先、母屋からは筒抜けです、「こんにちは」の一言で結構ですので、いらした以上は母屋に声をかけてくださいな。もちろん「こんにちは」はとりあえず他にかける言葉が無い場合の例に過ぎませんが。以前似たようなことがあって一言お願いしたら、御仁は以後ぱったり姿を見せなくなりました(と思います)。それが彼の生き方なんでしょう、残念ながらそう思うしかありませんでした。以上、母屋の小言幸兵衛より。

  8. 柚子 のコメント:

    失礼いたしました。
    街中で失礼な人に出会う度、気分の悪い思いをしますが、気づかないところで自分が同じことをしていました。
    今後、気をつけようと思います。ご指摘ありがとうございました。
    写真展に行き番組も見たものです。「奪われた野にも春はくるか」の検索でこちらののコメントを読ませていただき、深く再考しながらもコメントに形として残す力はなかったので、耳にした写真集販売情報だけ書き込みさせていただきました。自分自身、鄭周河さんの作品や番組を見て思うところが大きかったので、写真展に行かれなかった(行かれない)多くの方々にも目にしていただきたいと思う気持ちが先走しりました。

    • fuji-teivo fuji-teivo のコメント:

      柚子さん
       あなたの真摯な受け答えに感動しました。こういう場合、そのまま通り過ぎていかれると、あゝやっぱり言ってよかった、なにはともあれ一つ筋を通せた、と思うのですが、でも貴兄(あるいは貴姉?)のようなお返事に出会うと、相手の事情・真意も知らずに小言を言った当方の了見の狭さが恥ずかしくなるということになります(とかく人間関係はややこしいです)。
       ともかく、本当に爽やかな展開になりました、心から感謝申し上げます。
      そしてなによりも嬉しいのは、鄭周河さんの深く人間的なメッセージに共感された方がここにもいらっしゃるとの思いです。どうぞこれからもよろしくお付き合い下さいますように。貞房拝。

  9. 柚子 のコメント:

    fuji-teivoさま
    「感謝」と言って下さってびっくりしています。お恥ずかしい限りですのにそう表現して下さりこちらこそ感謝申し上げます。
    また「鄭周河さんのメッセージに共感された方がここにもいらっしゃる」というのは私がこちらで初めてコメントを読ませていただいた時の想いであり喜びでした。
    信じられないようなことが現実に起き続け溢れかえる情報に溺れそうになる昨今、鄭周河さんとの、またこちらでの出会いは、何に重きをおき人としてどう生きて行くべきか、今だからこそより地に足をつけて考えたいと思える出会いでした。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

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