鳥の物語


※これはあの大好きな『銀の匙』の作家・中勘助の同名のお話ではなく、とびきり現代の寓話です。 

 あるところに大きな、わりと見映えのいい池がありました。でもその池の水は一見きれいに見えましたが、それは見かけだけで、池の底が見えないほど濁ってました。150年ものあいだ(人間世界で言うと明治維新以降)淀んだままでしたから無理もありません。この池を支配する鳥(ちなみにスペイン語で鳥はアベと言います)一族の祖先にはこれまで二人も頭目が出た名門中の名門です。

 でもある時、かつて池の防災担当だった部下の大雁またの名をひしくい(漢字では鴻と書きます)がその鳥一族に傾倒する隣りの池の鳥から、一族の未来を担う雀の学校(校舎は籠です)を作るから何かと便宜を図ってくださいとの働きかけを受けました。その際、鳥社会でも禁じられている賄賂を持ってきたので、元防災担当は「無礼者、とっとと帰れ!」と言ったそうですが、そのあまりに芝居じみた説明を聞いて、それは後からの口裏合わせでは、ともっぱらの噂です。でもボス鳥をはじめそのことを必死に隠そうとしています。とんでもない巨額のお金が関係しているので、当然の疑惑です。

 そんな折、今度はこの池に隣接する稲田に汚染水が流れ込んでいることが判明し、鳥一族は大慌てです。いよいよヤキが回ってきたのかも知れません。

 今日も池にはしきりに動きまわる一族の鳥たちの姿が遠目にも見えますが、そんな時、むかし人間世界で流行った小松政夫の戯れ歌がどこからともなく聞こえてきました。

    ♫♪ しらけ鳥 飛んでゆく 南の空へ
      みじめ みじめ
      しらけないで しらけないで しらけたけれど
      みじめ みじめ ♫♪

カテゴリー: モノディアロゴス | 3件のコメント

すべて人生の薬味・滋養


 これまでずいぶんものを知らないで生きてきたんだなあ、と思うことが最近目立って増えてきた。例えば今日など、三月は弥生か、それじゃ旧暦で月の数え方全部言えるだろうか、と考えてみたら、途端に自信がなくなった。特に7月、9月が出てこない。睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月…そうだ文月だ、次いで葉月…うーんと長月、神無月、霜月、師走。六月の水無月がそのころ田んぼに大量の水を必要とするから、とは知っていたが、さて他の月にはどんな謂れがあるのだろう。そのうち調べてみなきゃ。

 大気が乾燥しているだけじゃなく、灯油ストーブを使っているせいか、ときどき背中あたりが痒くなる。そんなときのために机の脇に常時孫の手を掛けている。ちょっと待て、ほんとに孫の手なんだろうか。辞書で調べると、孫は麻姑の当て字で、その麻姑は中国の伝説上の仙女とある。つまり「後漢のころ姑余山で仙道を修め、鳥のように爪が長く、それで痒いところを搔いてもらうと、とても気持ちがよかった」かららしい。なるほどそういうことか。

 ことほどさように、知らないことがいっぱい。そんな意味でも、いま読んでいる岡村訳『ドン・キホーテ』はいろんなことを教えてくれる。まだ第十二章あたりをゆっくり楽しみながら読んでいるのだが、ドン・キホーテやサンチョの科白(せりふ)が実に面白いし生きている。いずれ会田訳や牛島訳と比較するかも知れぬが、今はとりあえずスペイン語原文を時折参照しながら読んでいるのだが、岡村氏、原文からは決して離れず、しかも実に自由闊達に訳している。たとえばサンチョが主人への感謝の意を表すのに「感謝感激雨霰」などという懐かしい日本語をさりげなく挟んでみたり、「臥薪嘗胆」とか「白髪三千丈」などという漢語が実に自然に遍歴の騎士物語の中に溶け込んでいるのだ。

 そればかりか原作者の向こうを張って(?)、原文にはない言葉遊びさえしている。たとえば「<馬鹿を申せ>と、ドン・キホーテ。《幾人討ったとて、罪に問われる遍歴の騎士がどこの世界におる。さような例を見たことがあるか?読んだことがあるか?》《人を売ってどうのこうのなんて、おら、なんにもわからねぇ》と、サンチョ。」
 つまりhomicidios(人殺し)という騎士の言葉を従者は聞き間違えて単なる悪意ほどの意味を持つomecillosという当時の俗語に言い換えたわけだが、それを岡村氏は「討った」と「売って」と二つのまったく別の意味の言葉で遊んでいるわけだ。

 他の訳者はここをどう訳しているかいつか調べてみたいが、とにかく大変長丁場の苦しい翻訳作業だったとは思うが、しかし楽しみながら翻訳を進めたらしいことがこれ一つとっても充分うかがえる。

 以上はスペイン語から日本語への翻訳の話だったが、今度は逆に日本語からスペイン語への翻訳の話である。他でもなく現在進行中の私のスペイン語版作品集のことだ。先の『原発禍を生きる』ですでに実証済みだが、ハビエルさんが今回も冴えた訳筆をふるっている。たとえば『ピカレスク自叙伝』の中で主人公の少年(私でーす)に向かって、兄が「お前は橋の下で拾われたマンジンの子なんだぞ」と言った時、側で聞いていたおやじは、なんとも訂正しなかったではないか、という箇所で、とつぜんこんなスペイン語が出てきて、最初は間違いではないかと思った。つまり直訳すれば「この口は私のものだとは言わない」(no decir que esta boca es mia)という訳文だが、よく調べてみると確かにその表現が辞書にあった。つまり押し黙ることをそう表現するらしい。これも原意を十分咀嚼したうえでの一種の言葉遊びであろう。皮肉やダジャレ混じりの拙文にはうってつけの訳者であることが再確認できて嬉しい。

 とここまで書いてきて、かなりの回り道になったが、実は今晩(おっともう翌日になった)ぜひ書きたかったのは、今晩いや昨晩7時半から放送されたNHKクローズアップ東北「もっと笑える~医療的ケア児と家族の日々~」についてであった。番組紹介は以下のようになっている。

「山形県鮭川村で旅館を営む元木家。長女の陽菜さん(13)は、原因不明の難病で目や脳に障害があり、日常生活を営むために栄養剤の注入などの医療行為が欠かせない「医療的ケア児」だ。村には訪問看護などのサービスがないことから、母親の美香さんが医療行為を行ってきた。そんな元木家は家族ひとりひとりが楽しく暮らすためにできることを見つけてきた。元木家の穏やかな日々を見つめる。(語り:杏)」

 ほぼ寝たきりだが、家の美子と違って陽菜(ひな)ちゃん時折手足を動かすことができる。妹と昼寝をしながらその妹に両腕で絡みつくような動作をすることもある。お腹から栄養剤(美子のエンシュアとは違うようだ)を注入しなければならない陽菜ちゃんはお母さんの四六時中の介護が必要で、この先どうなるのか、それは確かに心配である。しかし茶髪で元気に介護するお母さんの美香さん、旅館業で忙しいお父さん、鮭川村でただ一人の小学生の可愛い妹とのこの四人家族の明るさはどうだろう。まさにホラチウスのCalpe diem(この日を掴め)!を見事に実践している。さしあたっての問題や苦労はないがしょっちゅういがみ合っている「幸福な」家庭よりも数千倍も幸せな家庭を作っている。

 美香さんにこれまで多くの試行錯誤、ご苦労があったことは間違いないが、いつも前向きで、介護の作業一つひとつを実に丁寧に、しかも絶えず工夫を凝らしてこなしている。つまり介護を楽しんでいるとさえ言える。要するに美香さんだけでなくこの元木家にとって、陽菜ちゃんは太陽のような存在なのだ。私にとって美子がいわば生きる原動力であり活力源であるのと同じ。何を無理して、いい子ぶって、と言いたい奴には言わせておく。

 元東京都知事であった男が、在任中、胃ろうなどで命をつないでいる病人がいては都の財政が逼迫するだけだ、などとほざいたことがあったらしいが、その元知事の豊洲移転問題で記者会見をしているのを陽菜ちゃんの番組のすぐ前にちらっと見たが、なんとも痛ましい姿だ。

 いや玄関先から車までヨタヨタ歩くのはいい。私だっていずれそうなる。しかし会見に臨む心境は、と問われて、果し合い前の侍の心境だ、なんて口だけは達者。そのサムライが言ったのは「私だけの責任じゃない」とまことにみっともない言い訳。かつての最高責任者が言うことか! 武士の風上にも置けない卑怯な言いぐさ。おぬしは侍なんぞじゃない、湘南の元不良の成れの果てだ。会津侍の血を引く(らしい)貞房が言うことに間違いなし。

 さてこれまで翻訳の話と陽菜ちゃんの話と全く関係のなさそうな話題二つを書いてきたが、わたし的には(おゝ嫌だこの言葉!)同じ一つの主題である。つまり簡単に言えば、すべてを、たとえそれが表現上の困難であろうが、生活上の不便や介護であろうが、すべてを前向きにとらえて、できればそこに楽しさ、喜びさえ見つけようとの姿勢である。そこに負け惜しみや無理はない。

 だって一度限りの人生だろ、だったらすべてはその人生の薬味であり滋養であり、無意味なものは一つもないはずだ。

カテゴリー: モノディアロゴス | 4件のコメント

キホーテ尽くし


 このところ歯の具合が悪くてどうにも調子が出ない。上の歯はとっくの昔から総入れ歯だが、最近、差し歯で頑張ってきた下の歯も寿命が来たのか、ぐらぐらしてきて、とうとう下の歯も総入れ歯にすることになった。いや正確に言うと、入れ歯を支えるため二本の前歯を残しての作業なのだが……

 差し歯と入れ歯の違いも分からないので、どうも説明がむつかしい。要するにいま治療中のためうまく噛めず、おまけに痛いので、食事はおかゆと柔らかく調理してもらったものを上唇と歯茎と舌で何とか呑み込んでいる。歳をとるということは、そういうものだ(ケセラン・パサラン)。

 そんなこともあってモノディアロゴスも休みがちになっていたが(たしか今までの最長の休み)、体調を崩してるわけでもないのでご安心ください(だれに向かって言ってる?)。

 いや正直に言うと、歯の調子のせいばかりでなく、このところいろんな本を同時に読んだために頭が混乱しているわけだ。最初は通りがかりにたまたま目に入ったG.グリーンの『キホーテ神父』をまだ読んでないことに気づき読み始めたのだが、そこに若い友人の岡村 一さん(熊本学園大学教授、スペイン中世文学専門)から出版されたばかりの『ドン・キホーテ(前編)』(水声社)が送られてきた。氏が長年にわたって紀要に分載してきたものがとうとう本になった(後編は続いて出るようだ)と、これまでのご苦労を知っているだけに、我がことのように喜んだ。で、これも読み始めたのだが素晴らしい訳文に仕上がっている。会田由訳、そして我が亡き友・牛島信明さんの訳などで読んできたはずなのに、まったく新しいドン・キホーテに出会った感じがして、衝撃を受けている。

 どこかの新訳文庫のキャッチフレーズに「いま、息をしている言葉で」というのがあった。実はその文庫から頼まれてオルテガの『大衆の反逆』を訳していたが、編集者と折り合いが悪く、もっとはっきり言えば原文も読めないのにやたら訳文に手を入れてくることに嫌気がさして、そしてそこに大震災が降ってわいて、それをいいことに関係を断ち切った。その経験から新訳一般に見られる「つるんとした」訳文についてこれまでずいぶん憎まれ口を叩いてきたが、今度の岡村訳を読んで、文字通り「いま息をしている言葉」もいいもんだな、と認識を新たにしているところである。「認識を改め」たわけではない。岡村訳が例外的に成功している、と言いたいだけだ。いずれこの新訳についてきちんと書くつもりだが、今はなぜ頭が混乱してきたか、について説明する。

 岡村訳を読みながら、そういえば昔ウナムーノの『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(法政大学出版局版著作集)を訳したわい、そればかりかオルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』(未来社刊)も、いやいや訳書だけでなく『ドン・キホーテの哲学』(講談社現代新書)なんて本も書いたんだっけ、と思い出し(?)、さあそれからが大変。つまり慌ててそれらを読み直そうとしたのはいいが、さらに大江の健ちゃんの『憂い顔の童子』(講談社)までもが目に入り、それら全部を同時に読み進めよう、なんて無茶やったもんだから、頭が混乱してきたわけ。前の四著はともかく、かつての教え子の秋山さんが「絶望的にむつかしい」とぼやいた大江さん(と親しいわけではないが、なぜか彼をさん呼ばわりする)の「絶望的」なまでに錯綜した『憂い顔の童子』ですっかり頭のゼンマイがトチ狂ってしまったのである。

 それでも『キホーテ神父』はどうにか読み切ったが、さてこれからどうしたものか。一冊ずつ読み終えてから次のに取り掛かろうか。

 ともかく頭を整理するためには手仕事がいちばん、と810ページもある大冊岡村『ドン・キホーテ』(A5版)をビロード(今じゃベルベットと言うらしい)で装丁し直し、世界に一つしかない美本に様変わりさせたりなどして、何とか精神の安定を得ることができた。でも頂いたからいいようなものの、これを大枚一万円で買うとしたらちょっと考えてしまう。しかし私のしたように、これをベルベットで表装するなり背革にするなりして家宝にする手もある。将来、私とは縁を切った例の文庫から分冊再版されたら、若い読者層にも手に入れやすくなるだろう、なんて余計な心配までしている。

 とにかく『ドン・キホーテ』は不朽の、そして不世出の傑作であることを声を大にして叫びたい(なにを今さら)。皆さんもお手元ににあれば、そしてもしなければ何とか手に入れて、ぜひお読みください。確かに新しい世界が見えてきます。

※ 蛇足にしては立野さんに申し訳ないが、今日の氏からのメールで、あの大作家・大西巨人さんも生涯、古本を製本したり装丁し直したりすることに熱心だったそうである。手が動く限りこれからも古本の再生・蘇生術ばかりか、今回のように新本の装丁し直しを続けようと思ってる私には大いに励みとなるニュースでした。

カテゴリー: モノディアロゴス | 1件のコメント

害にはならぬ無駄話


「やっぱ言ったらしいよトランプが」
「何て?」
「ぼくちゃんたち相性いいって」
「だから言っただろ、安倍とトランプ、まるで双子の兄弟みたいだって」
「でもあんな男が大統領に上り詰めるとは、アメリカもおかしな国になってしまったね。と言って安倍みたいな男が首相になってる国もそれなりにおかしいけど」
「この間テレビを見てたら、なんと懐かしのケント・ギルバード※が出てたよ。それもトランプのシンパとして。昔出ていたころはカリフォルニア州弁護士とかの肩書で人畜無害の外タレと思ってたが、なんと今じゃバリバリの右翼だぜ」
「途端に人相まで悪くなって見えるね。トランプは今やリトマス試験紙みたいなもんで、好き嫌いでその人の人格の中身まで見えてしまう」
「止めよう、この話。だんだん気分が悪くなってくる」
「ところで君、この三日ほど、豆本作りの合間に、またぞろ古本再生術だか蘇生術だかで忙しそうだね。
「気分が鬱屈してると出てくる発作みたいなもの。今日はたまたま見かけた古いペンギンブックを蘇生させたよ。まずヘミングウェイの『午後の死(Death in the Afternoon)』と『海流の中の島々(Islands in the Stream)』の二冊を合本にした。表紙に厚手の紙を貼り、それを水玉模様の布でくるんで背表紙に茶色の布を貼り、最後は題名を印刷して表紙と背中に貼り、おまけに原本表紙にあったヘミングウェイの顔写真を貼り付けて超豪華本に仕上げた」
「でもまだ読んでなかったんだろ?」
「バレたか。でも『午後の死』の真ん中あたりに闘牛の写真が96ページもあって、いつかゆっくり読みたいとは思ってる」
「ところでその闘牛だけど、最近は無くなったのかな、動物愛護団体とかのクレームを受けて」
「昔はブラスコ・イバーニェスの『血と砂』を読んで熱中したこともあったね」
「そっ、でも何回かのスペイン旅行でも結局闘牛は見なかった」
「残酷だから?」
「いやそういうわけでもない。機会があれば見たかも知れない。残酷といえば世界中で今も繰り返されている戦争の方が何倍も、いや比較にならないほど残酷だがね。昔ローマで剣闘士の見世物があっただろ。血の気の多いローマ人はあれで好戦気分を鎮めたらしいね」
「一度、徹底的に闘牛の歴史を調べようと思っていくつか文献をそろえたこともあるが、もうそんな時間はないや」
「そうだペンギンの『これぞジェームス・ジョイス(The Essntial James Joyce)』も厚紙を張って黒い布表紙にし、原本のジョイスの肖像画はそっくりそのまま切り抜いて、これも世界に一つしかない美本(?)にしたよ」
「懐かしいね。「いまだ書かれざる小説へのプロローグ」という大昔「青銅時代」に書いたものをちょうどいまハビエルさんが訳し終えて、改めてあのころのこと懐かしく思い返した。その中でジョイスの『若き芸術家の肖像』とトマス・マートンの『七重の山(Seven Story Mountain)』を狂言回しに使ってね」
「つまりあのころすっぽり自分を覆っていた霧から抜け出すヒントを得ようとしてだろ。でも霧っていえば、今もすっぽり霧の中に閉じ込められてるようなもんだろ?」
「……あゝそうそう」
「また逃げたな」
「装丁の話に戻るけど、これもたまたま本棚の隅に見つけた小冊子を布表紙にして背革を貼り見栄えのいい豆本に仕上げたよ」
「1971年に原町市が発行したやつの復刻版として、2007年、はらまち・小高・鹿島(つまり現在の南相馬市)と相双教職員の九条の会が市民に配った『日本国憲法』だろ」
「そう、これは憲法だけじゃなく教育基本法と児童憲章まで収録した横7.5センチ、縦11センチ、64ページの豆本。お金があったら全国民に印刷・製本して配りたい」
「恥ずかしながら憲法を今までしっかり読んでなかったばかりか教育基本法や児童憲章も初めて見るお粗末。いやーこれを機会に『平和菌の歌』の豆本と一緒にいつも携行することにしよっと」
「そうだよな。憲法改悪反対なんて言っても、きちんと読んでないなら話にもならない」
「そういうこと」

※デリカットさんごめんなさい。同じケントでもギルバードの間違いでした。お詫びして訂正します。(2月13日、朝)

カテゴリー: モノディアロゴス | コメントする

米軍御用達


 今朝の毎日新聞ネット版にとんでもない記事が載っていた。日本の大学の研究者延べ128人がこれまで、正確に言うと2010年度以降の6年間、米軍から8億円超という莫大な額の研究費を「いただいて」研究を続けてきたというニュースである。また、10~16年度に京都大と大阪大の教授ら11人が米空軍と海軍から計約2億円の研究費を受けたことも毎日新聞の情報公開請求で判明したという。

 真っ先に思ったのは、これら研究者たちの識見の無さ、もっとはっきり言えば意地汚さである。

「教授らの研究分野は人工知能(AI)やレーザー技術など。米国防総省は14年に発表した技術戦略で、AIを搭載した無人兵器につながる自律型システムの重視を挙げた。また、レーザーは砲弾やミサイルに代わる新兵器に繋がるなど、米軍が将来兵器の技術として重視する分野と重なる。」

 つまりこれら研究者は確かに知能指数は高いかも知れないが、人間としての知恵力、思考力ゼロの頭でっかち人間と言わなければならない。目先の難問に挑戦するのはいいが、その先がどうなるか一切見えてないわけだ。いやもしかして見えてはいるが努めてみないようにしているのか。どちらしても足長おじさんは同盟国いやむしろ宗主国アメリカ合衆国(スペイン語圏では単にアメリカといえば中南米諸国を指すからあえて合衆国と念を押さねばならない)だからいい、と思っているのかも知れないが、テロリストにしろISにしろ使っている兵器はアメリカ製やロシア(あるいは旧ソ連)製であり、ハイテク兵器も即座に手に入る時代である。兵器売買に国境は存在しない。

 いずれにせよ、先日福島県浜通りロボットバレー計画を槍玉に挙げたように、ハイテク信仰の行く末は地球破壊・人類破滅への道であることをいい加減悟ったらどうだろう。

 おい、そこの部厚いレンズ眼鏡の教授さん(もしかして准教授?)、少しは人間としての良心を持ったらどう?(本当は、恥を知れ!と叫びたい)

カテゴリー: モノディアロゴス | 1件のコメント