今日で半年

「半径3メートルの生活」*の中で、自らの祈りを言葉に込め発信した父のモノディアロゴス。その最後の投稿まで父に寄り添っていただいた最高の読者のお一人、阿部修義様から先日いただいたコメントを父に捧げよう (東京・銀座で開いて下さった「偲ぶ会」で、初めてお目にかかったが、そのお言葉そのものの、広やかで温かな心を持った「大きな」方だった) 。

* http://monodialogos.fuji-teivo.com/archives/13674

「永遠に生きる」私もそう思います。人間は外面的には相対界の一つですが、内面的には絶対者です。永遠という言葉は高さ、深さの次元のことであり、人間の心の在り方にあると私は思っています。先生は「魂の重心を低く」と事あるごとに言われていました。私は、それを「愛を以て」と考えています。それは究極的には己を捨てることなんでしょう。そうすることによって、物事の本質に迫ることができる。「永遠に生きる」とはそういうことではないでしょうか。しかし、人生の中で実践することは至難です。「永遠に生きる」ためには平凡な毎日の中で、少しずつ自分を省みて研鑽していくしかない。人間の幸せ、あらゆる人生の問題も、それらの本質は何かがわからないから欲望に生き、エゴに生き、不幸に陥っているのかも知れません。カール・ヒルティというスイスの実務家であり思想家が自分のお墓に、こういう言葉を刻み付けています。この人も「永遠に生きる」を実践した人でした。すばらしいご感想ありがとうございます。
 「愛は、すべてに打ち勝つ。」

追記(6月21日)
この投稿をお読み下さった明大名誉教授・立野正裕先生から、私信のやり取りでいただいたメッセージを以下に引用させていただく。
これは父の尊厳のために、「絶対に」必要なことだからだ。

先生の孤独なたたかいは終生続きました。一切の妥協を排した孤高のたたかいでした。いったいいくたび、巧言令色の輩が出たり入ったりして、そのつど先生に糠喜びを与え、次の瞬間煮え湯を飲ませる、という心なき仕打ちを繰り返して来たことだろうと思います。
しかし、先生の精神も生き方も、日々の行住坐臥の末端にいたるまで揺らぐことなく、最後まで筋を通されました。すべてがどっちつかずに揺らぐ浮薄な現代にあって、揺らぎや右顧左眄とは無縁の、まったく稀有の清貧な強い自律の生涯を、先生は独り貫かれたのです。

2018年12月18日午後1時過ぎ、検査室に赴く直前、南相馬で案じる穎美たちに見せたいからの願いに微笑で撮影に応じたが、これが生前最後のやり取りになった。
執筆の場となった小さなデスクの脇に貼り付けていたスペイン語の聖句。座右の銘にしていたのだろう。
「主よ、私の内なる生をその恵みにより照らし、導いて下さい。神の愛の業である幼子たち、病んだ人たち、貧しき人たちを心から愛することができますように」
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父へ

たぶん付き合いのあった誰よりも(偉い方々はむろん、教え子を含め)、父は質朴でつましい暮らし、生き方をしていたはずだ(母の傍らでブログを執筆した陋屋を見れば瞭然としているだろう)。多くの人々が志向する皮相なソフィスティケーションとは対極的な在り方だったと思うが、精神は誰よりも自由で、深く広大だった。父の言論を表層で捉え、冷笑し、見限った人々が大勢いたことを私は知っているが、父のまごうことなき本質は、貧しさを身にまとったその高い聖性である。その意味で、肉親ながら、わが父を名の有る他の誰よりも私は評価している。

言葉を魂のレベルで汲み取ること、つまり愛がなければ、父の言論は評しえないだろう。

孫の愛とともに
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