スケベ考


 先日、虫害を辛うじて免れた本たちの中にもう一冊身元不明のスぺイン語の本が入っていた。『98年世代の秘密』という題の、まるで雨ざらしに遭ったように古びた180ページほどの本である。98年世代というのは、言うまでもなくあのウナムーノやピオ・バロッハ(先日紹介したカロ・バロッハの叔父で、あのヘミングウェイにも影響を与えたと言われる小説家)などを輩出した有名な世代グループである。

 せっかく生き延びたのだからと、この本も裏表紙と背を布で表装してやったが、古びてはいてもピンクのスカ-フを首に巻き頭部もやはりピンクのヴェールで覆った美人画の表紙はそのまま残してやった。ところで内容は、と言えばどうもよく分からない。題名から、98年世代の小説家たちの秘密を暴くものかなと、まずは同じ題の冒頭の3ページほどの文章を読むと、要するに98年の世代なんてものは大騒ぎするほどのものではなく、秘密と言えば評判とは裏腹の無害性、つまりつまらなさが本当のところだ、と切り捨てている。

 作者のフエンマヨール自身は1889年生まれで、この本が出版されたのは1944年、つまり彼の55歳の時の作品で、彼より年長の世代がやたら評判がいいのを半分妬みながら冷ややかに見ているようだ。全部で32編もある短編というより掌編は当時の生活スケッチであるが、グーグルを見ても、また人名辞典を見ても彼についての記事は一つも見当たらないところから判断すると、どうも三流どころの文筆家か。ただ彼の作品だけは数冊、例えば『グルメの手引き』や内戦時(1936~39年)のエピソードを描いたものが古本としてネット・オークションに出ていた。

 それにしてもどこから迷い込んだ本だろう。唯一思い当たるのは、或る年、或る大学で非常勤講師のX先生が離職間際にくださったものではないかということである。しきりに思い出をさぐっていると、彼からはこの本だけでなくスペインのポルノ雑誌を数冊もらったことまで思い出した。当時自由化が進み始めたスペインから持ち帰ったものらしい。日本の同種のものに比べると(と言って読んだことも買ったこともないが)そのものズバリの写真のオンパレードでさすがに処置に困り、枯れ葉(秋だったか)と一緒に庭で燃やした記憶がほんのり残っている。

 さてここからろくでもない探索が始まった。つまりスペイン語ではX先生のような老人を緑色の爺さん(viejo verde)というが、なぜ「緑」なのかが気になってきたのだ。こういうときグーグルでもヤフーでも検索すればすぐ答えが出てくるのはなんともありがたい。つまり「緑色の老人、なぜ?」と打ち込めば、こういう答えが出てきた。
verde はラテン語のveridisからきた言葉で、緑色のほかに若々しさ、元気をも意味していた。17世紀のコバルビアスの辞書でもそうなっていた。ところが18世紀以降、そこに否定的で軽蔑的な意味が加わって、今度はそれが主流となってしまった、と。

 どうでもいいことだが、先日、残り少ない人生、なにごとも丁寧に(震災後、飯舘村で有名になった「までいに」の意味である)扱うと言った手前、こんなことにまで丁寧に付き合っているわけだが、ここまで来た以上、じゃ日本語でそういう老人をなんと言うか。好色爺(じじい)、狒々(ひひ)おやじなどいろいろあるが、一般的にはスケベ爺だろう。ではなぜスケベと言うのか。これもネットで調べるとこう説明されていた。つまり使われ始めたのは江戸時代、当初はあることに強い興味・関心を示す「好き」が「助」となり、それが人を示す「兵衛」と合成されたのだが、明治時代の終わりごろから好色の意味に限定して使われるようになった。しかし「助兵衛」という実際にも使われていた人名と区別するため、次第に訛って「スケベ」となった。

 以上でスペイン語、日本語の「スケベ爺」の語源学終了。もちろん日本だけでなく世界中に「緑色の爺さん」がいるわけだが、しかし日本近代文学で、例えば谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』や『鍵』そして川端康成の『眠れる美女』などその種の主人公を描いたものが名作として名を連ねているっちゅうのは、考えてみればあまり名誉なことじゃないな。実は二つとも読んだこともないし、これから読むつもりもないし、そうした性向を持っている好事家たちが楽しんで読む分にはいいけど、でも名作にリストアップするのはどうかな。

 いずれにせよ一種病的な偏倚だろうけど。あっすみません、天国のX先生、先生を非難するつもりは毛頭ありませんよ。でもこの間の松戸市レェ・ティ・ニャット・リンちゃん誘拐殺人事件やら今も海外で時々起こる聖職者の性的暴行事件など、世の中ゆがんだ大人たちの性犯罪が跡を絶たないのは嘆かわしい。

 谷崎や川端は作品を書くことでそうした偏倚をうまく昇華したのだろうが、でも現在のネット時代、際限なく流されるいかがわしい画像など…いやいや、官憲が取り締まるべきとは思わない。北朝鮮のように韓流映画を観ただけで下手をすると死刑になったり、では恐ろしい世の中になる。だからといって偏倚老人のそうした作品を名作扱いにするのはどうも…

 ろくに考えてもみなかった問題の隘路に踏み込んだようで、この辺でお開き。要するにくだらないものはクダラナイという常識が、つまりそうした世の風潮を笑い飛ばす健全さが…やはり後が続きません、本当にこの辺で退散します。

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ぐだら話


「今日もぐだら話続けよか」
「なんだい、そのぐだらっちゅうのは?
「ぐだぐだ、と、だらだらの合成語」
「ばからしい。で何を続けるんだい?」
「昨日の虫害話の続きさ。実は今になって後悔してるのは、虫に食われて廃棄した4冊の本のデータを蔵書リストから抹消したこと」
「それは当然の処置でしょ? だって廃棄したんだから」
「それはそうだけど、データはそのままにして、虫害に遭ったので本書は廃棄しました、日付…くらいの対応をしてやるべきだったと思ってる」
「小さなことにいつまでこだわってる? 他にするべきことあるんだろ?」
「いやさ、そのことなんだけど、これから先、どこにも行かない、いや行けないし、幸いなことに死ぬまでまあまあ餓死することもないという境遇で、しかも差しあたってこれという課題もない、ていうことは」
「ていうことは」
「合いの手はいらないよ。言いたいのは目の前のことを一つひとつていねいに扱いながら生きてゆくべきだっていうこと。つまりだね、以前書いたことがあるが、ちょうど自分の巣穴を自分の唾液でていねいに塗り固めたり補修したりする昆虫のように」
「あらあら、やっぱ虫にこだわってるんだ、でも今回の話とどう繋がる?」
「繋がってますよ。リストから抹消したのは、正しい判断だったかも知れないけど、その際の遇し方、扱い方…」
「よせやい本様に対してかい?」
「でもデータは残さなかったのは結果的には良かったかも」
「何を言いたいんだか、さっぱり分からん」
「つまりだね、辛うじて虫害を免れた他の本から、また新たな展開が…白状すると、そのことに引き摺られて新たに本を注文したりしたので、もしも抹消していなければ今ごろまた何とか身代わりを探していたかも知れないからさ」
「そんな君とはとても付き合いきれないけど、仕方ないな、これがわれわれの宿命だから」
「すまん。詳しく言うとだね、廃棄したうちの一冊は実はコピーで作った手作り本でね、イギリスのスペイン研究者レイモンド・カーの『スペイン―1808-1975』という本(西語訳)の最後の部分に当たるもの。そして幸か不幸か、辛うじて残ったのはその本の真ん中部分」
「つまり三巻中、最後のものは虫にやられたけど真ん中の部分は残ってたんだ。で、最初の部分は?」
「分らん、どっかにあるはず。それでね昨夜、その残ったコピー本を見ているうち、そんな総ページ700ページ近くもある本をどこでコピーしたのか、たぶん清泉女子大の図書館の本からだろうな。で後半部がなくなったからといってこれまで廃棄するのは可哀そうだ、いやそれをコピーした苦労を無にすることはできない、せめて新たに厚紙と布で見栄えよく装丁でもしてやろうと思ってね」
「ま、君の仕事というより趣味だから、それもいいんじゃない」
「補修作業は済んだけど、それで終わらなかった。つまり無くなった部分もなんとか補ってやりたくなってね。で、アマゾンで検索したら、さすがに同書の西語訳はなかったが、“Carr, Raymond;Modern Spain, 1875-1980 ”というペーパーバックが見つかった。つまり対象年度が少しずれてはいるけど廃棄した部分となんとか重なる内容らしいんだ。古本だから値段も手ごろだったし」
「まっ、それで君が満足するならいいでしょ」
「ところが話はまだ続く」
「勘弁してよ。これから先はもうだれも読まないよ」
「はっきり言うと、誰も読まなくても私ゃ書きます」
「どうぞどうぞ」
「辛うじて虫害を免れた本たちの中に、マックス・アウブという人のブニュエルとの対話(Conversaciones con Bunuel)という566ページもある本があった」
「分かった、今度はブニュエルのCDがほしくなったんだろ?」
「当たり。たしか彼のメキシコ時代の古い映画のCDはどこか家の中にあるはずだけど、フランス映画の…」
「これも分かった、『小間使いの日記』だろ?」
「半分当たり。というのはそれはかなりの高値でちょっと無理。それでVHSの『昼顔』の1円のが見つかった」
「ああそれでか、昨日ごそごそVHSのプレイヤーをいじってたのは」
「ところが長い間使わなかったせいか、動かない。でもその時その傍で思わぬ見つけものをした。これもいつ手に入れたかすっかり忘れていたけど、あの亀井文夫の『戦ふ兵隊』のビデオ・テープだ。わが町出身のあの亀井文夫の昭和14年、つまり私の生まれた年に作られた名作のVHSだ」
「そうかそれでいつかはデッキを動くようにするつもりで、この際ブニュエルの『昼顔』も、か。最近若手の女優主演の団地妻かなんかの映画にリメイクされたしね」
「そんな下らぬもの見る気もしないが、カトリーヌ・ドヌーブが出たブニュエルの映画なら見てもいいな、と思ってね」
「さあ。これで今日のぐだら話はお開きだね」
「んにゃ、まだ終わらね。さっき話したカーの西語訳のコピーをいつ取ったのか考えているとき、それが出版の翌年、つまり常葉に移る前の年の1983年だったらしいと思い、確かめるため当時の記録を調べていたら、同年すごい事件があったことが分かった」
「脅かすなよ、今度は何だい?」
「その年、つまりコピーを取った年の3月14日(日)、教え子のK君の出版祝賀会に行くため、当時住んでいた鎌田の家から美子に車で二子玉川まで送ってもらう途中、事故にあったのだ。その時の日本火災保険による示談書のコピーがちゃんと残っていた。そのままここにコピーしよう。

「事故発生の場所――鎌田3丁目1-3先路上
   事故発生年月日 3月14日午後5時20分頃
   被害者   世田谷区喜多見 2(以下省略) M・S子  Tel。省略
事故の概況 上記日時場所T字路交差点に於いて右折しようとした加害者車両と、右方から進行してきた被害者車両と出会い頭に衝突し、M・S子が負傷したもの。
   示談の条項 加害者側はM・S子に対し、その治療費、慰謝料、休業補償費、その他生涯事故に関する一切の費用として\422622円を支払う。但し治療費\154720円は既払いに付き、その差額\267902円を支払うものとする。以下余白。
※ 上記の条件をもって示談解決いたしました。今後いかなる事情が生じても双方とも本件に関し損害賠償、その他名義のいかんにかかわらず一切の異議申し立てをいたさないことはもちろん、訴訟等の行為を放棄いたすことを確約いたしましたので、後日のために本示談書3通を作成し、双方連署、なつ印いたします。」

「へー、事故があったことや相手はスクーターに乗っていて、直接ぶつかったわけではなく、避けようとして転倒した際の擦り傷程度だったとは覚えていたけど、へーかなりの示談金を払ったんだ」
「そのS子さんもかえって恐縮してたけど、運転手の前方不注意は不注意。それ以来美子は注意して、以後まったく無事故」
「今は身動き一つできなくなったけど、美子は普通の女性ドライバーより運転が上手で、交通量の激しい東京の街をすいすい乗り回してた時代もあったわけだ」
「そういうこと。良かったねそういう時代もあって」
「そうだね。ぐだら話も最後の最後に来て、いい思い出話になって、良かったよかった」
「あっそれ寅さん話の住職・笠智衆の真似でしょ?」
「あらあらもう2850字にもなったよ。ここらでほんとにお開き」

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サハラ妄想行


 さしあたって何が?と聞かれると返事に窮するが、何となく忙しく日が過ぎてゆく。とりあえずは少しずつ本の整理をしなければと思うのだが、何から手を付けたらいいのか、それが分からない。そんな時たまたま手にした本がまた新たな仕事を作ってしまう。

 今回はカロ・バロッハの『サハラ研究(Estudios saharinos)』(1990年)である。何でこんな本を買ったのかといえば、おそらく静岡時代に彼の『カーニバル』(法政大学出版局、1987年)を翻訳したからではないか。それにしても600ページ近くもある大著を訳し終えたばかりなのに、よくもまあそんな気力があったこと。若かったんだなあ、と思う。しかしどうも読んだ形跡はなさそうだ。これも501ページ、しかも14部もの大小さまざまの図版の入った袋が付いている。さすがに本文に組み込むことができずにカンガルーの赤ちゃん並みに扱ったのだろうか。

 仕事というのはこの袋ごと本を厚紙で補強し、袋の分だけ厚くなった背に模造皮革を貼り付けることである。なんでこんなことを、とボヤキながら作業をしているとき、ふとサハラという言葉で思い出したのは森本哲郎さんの『サハラ幻想行-哲学の回廊』(河出書房新社、1971年)である。今回は難なく見つかったが、これも読んだ形跡はない。森本さんとは清泉のときと常葉のときと、二回学生のための講演をお願いして以来、本を出されるたびに送ってくださるなどして文通が続いたが、震災のあとしばらく音信が途絶え、そして2014年に亡くなられたことを後で知った。どこかでもう書いたが、父上が漢学者であられたこともあって、西洋のみならず東洋の学問伝統にも造詣の深い方だったが、こういう知識人、つまり漱石や鴎外以来の日本知識人の本流がここで途切れてしまうのだろうか。そう考えると悲しくなる。

 ヨーロッパの場合は、もちろんギリシャ、ローマ以来の学的伝統だが、スペインの場合はさらにこれにアラビア、ユダヤの知的遺産が加わる。カロ・バロッハのこの本にも随所にアラビア語(?と思う)の注などが入っているが、彼自身がアラビア語に堪能であったかどうかは知らない。しかし同時代のアシン・パラシオス(1871-1944)などスペインには錚々たるアラビア学の伝統があったのだが、果たして現在はどうか。おそらく日本と同じようなていたらくではないかと危惧している。

 前述したような次第でカロ・バロッハの著作は一通り揃っているが、アシン・パラシオスはどうか。急いで「貞房文庫」を調べてみると『スペイン・イスラム思想ならびに神秘思想研究三編』と『キリスト教化されたイスラム』があった。先日来の話に出たイスラム理解に資する本がわが貞房文庫にも少しはあるわけだ。

 話は急に変わるが、このごろ何かの折に肝心の固有名詞が出てこないことが多くなった。今回もむかし或るアラブ人の訳本のコピーを取った記憶が薄っすら残っていたのだが、さて誰の本か、どうしても思い出せない。仕方なくグーグルでアシン・パラシオスの項を見てみたら、なんとその名が出てきたではないか。そうだガザーリ、ラテン名アルガゼル(Algazel)だ。念のためアマゾンでアルガゼルの名前で検索したところ、これも運よく訳本の題名が出てきた。アヴェロエス※著『(アルガゼルの)哲学矛盾論の矛盾』(田中千里訳、近代文芸社、1996年)である。なぜこんな七面倒くさい訳本のコピーなんぞ取ったのか、それさえすでに忘却の彼方。そのコピー本、どこかにあるはずだけど探すのはそれこそカッタルイので勘弁願おう。

 いや正直に言うと、実は探し始めてすぐ、もの凄いものを見てしまったからだ。大工さんに頼んで夫婦の居間の西側の押入れ上半分を解体し、そこに窓をつけ、新たにできた棚の上に四個ほど中ぐらいの背の本棚を置いていたのだが、先ほど見てみるとそのうちの一つの下段がものすごい虫害に逢っていたのだ。おそらく十年はそうやって放っておいたので、いま現在は虫(紙魚だったろうか?)はいないが、何冊もの本の中が食い荒らされて巨大な空洞になっているではないか。何年か前に北側廊下の本棚が被害に遭って大騒ぎをしたが、油断してました、こんなところもやられていたわけです。

 四冊ほどの書名を辛うじて判読して貞房文庫からそれらを抹消したあと、急いで大きなビニール袋に残骸を入れ、次のゴミの日に出すつもりだが、油断してました。他の本棚などには小さな袋に入った防虫剤を満遍なくばらまいていたのですが、この西側の本棚のことはすっかり忘れてました。

 そんなこんなでサハラ砂漠のことなど吹っ飛んでしまったが、閑話休題といきましょう。と言って今のところ特に書き継ぐこともない。ともあれとうぶん前述の本たちを机の傍に置いて、ときおりはサハラに思いを馳せようとは考えている。ここでもう一つ白状しなければならないのは、こんなすったもんだにもめげずに、森本さんの「あとがき」にも出たきたもう一つの名前が頭から離れず、とうとうその人の本と伝記をアマゾンに注文したことだ。その人とはシャルル・ド・フコー。1858年、ストラスブールの貴族の家に生まれ後に軍人となってモロッコに、帰国後の1890年に厳律シトー会に入り、再度アフリカに行ってトゥアレグ族と行動を共にし、彼らの文化を調査したが最後は暗殺されたカトリックの神父にして探検家・地理学者である。

 注文したのは彼の『霊のあふれの手記』(沢田和夫訳、サンパウロ社、2000年)と彼の伝記J.F.シックス著『シャルル・ド・フ-コー』(倉田清訳、聖母の騎士社、1998年)の2冊である。2冊で送料込み865円だからいいようなものの、このサハラへの突然の憧憬に自分でも驚いている。しかし森本さんのようには、そしてわが友・立野さんのようには行動的旅行家ではなく、フーコーのように観想家と言いたいけどそれも無理、ともかく旅先でも絶えず帰巣本能に苛まれる単なる内弁慶の夢想家なので…どこかから、本の値段などどうでもいい、肝心なのはお前にそんなもの読む時間があるのかつーの!という怒声が聞こえてきましたので、今夜はこの辺でお開きにします。スンマソン、この古ーいギャグ誰のものだったかも忘れてますが……いつまでくだらないことぐだらぐだらくっちゃべってんだーっ!いずれなんでも忘れるよーになっとー! いやいやごもっとも、でもそんな悲しいこと言わないでくださいな、もう引っ込みますから…

※ 翌朝の追記 昨夜、上の文章を書いていた時、とつぜん文の一部が消えてしまった。時折起こる事故だ。で、いま読みかえしたところ、アヴェロエスについて書いた部分がすっぽり消えていた。ご存知の方が多いとは思うが、彼のことを少しだけ紹介しておく。先日の自爆テロの際にも触れたことだが、12世紀スペイン、特にトレドとコルドバは一度ヨーロッパからほぼ消えていたギリシアやアラビアの知的遺産の再流入の拠点だったが、このアヴェロエスもその立役者の一人である。アヴェロエス(スペイン語読みではアベロエス)はラテン名で、本名はイブン=ルシュド、1126年コルドバ生まれのイスラム哲学者・医学者だ。アリストテレス哲学の注釈を通じてイスラムの信仰とギリシア哲学の融合を図ったが、のち異端視された。以上補足説明である。
※※もう一つ抜けていました。彼の没後800周年のアンソロジー(1998刊)が我が貞房文庫にもあるということ。さてどこに隠れているか、今後の探索に待つしかありません。

※ 10日の追記 コルドバでほぼ同時期、最高のユダヤ哲学者マイモニデス(アラビア名イブン・マイムーン、ヘブライ名モーシェ・ベン・マイモン)も生まれたことを忘れてはいけない。1135年、コルドバの名家の生まれで、のちユダヤ人弾圧を逃れてモロッコ、パレスチナ、そしてエジプトに移る。その思想は新プラトン主義的アリストテレス哲学に立つ。わが貞房文庫にも彼の『五通の書簡』と『迷える者の手引き』(いずれもスペイン語版)があったが未読のまま。探し出して読まなくちゃ。
※※同日の再追記 むかし読みかけて放っておいたW.M.ワット『イスラーム・スペイン史』(黒田壽郎・他訳、岩波書店、1976年)に再度挑戦の必要あり。

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さらに妄想が続く


「ちぇいすとおーッ」

『新・子連れ狼』の斬り合いの場面で画面いっぱいに広がる叫び声である。
 
 大五郎の父親代わりとなった東郷重位(しげかた)の気合だが、これまでだったら「えいっ!」と叫ぶところ、重位はこんな奇妙な声を発する。作中人物の一人の説明によると、「これは猿叫(えんきょう)という流派を問わず自然に発すものなれど重位の示現流はひときわ大きく並居る者たちの肺腑をえぐる」という。幼い大五郎も重位に倣って叫ぶが、さすがにまだ迫力不足の「ちゃああーン」止まり。

 大五郎が箱車に乗っている絵をこれまでも目にしたことがあるが、実は箱の上辺の木枠に槍が仕込まれていることを今回初めて知った。油断のならぬ坊やである。そしてこの箱車ではからずも思い出したのは、天保四(1833)年、つまりまさに天保の大飢饉直前に、天秤棒の先に担がれて相馬に来た私の曽祖父・二歳の與八(庄八の幼名)坊やのこと。母方の祖父・安藤幾太郎の残した『故安藤庄八翁の傳』にはこう書かれている(私家本『虹の橋・補遺』に紹介済み)。

「翁ハ天保三(1832)年九月十五日陸奥国八戸町川内村に生る幼名を與八と称す家世々農なりしが天保四年三月翁二歳の時父庄八母つぎ姉きみと一家を挙げて移住を企て郷里を去りて磐城国標葉郡大堀村瀬戸焼業庄次郎(現今陶運〇の家)といへるものに寄る…省略…庄八五歳のとき歳飢盗賊の難ありて人々安居することを得ず止むなくここを去り常陸国水戸市にいたり常盤大護院に寓したり次いで魚商を営みたり此の間母病んで死す翁十五歳のとき水戸藩士二千石を食める岡本友之助の若黨となる翁性剛毅忠直主の愛する所となり或る時翁を試みんと翁の夜警所に微行せしに翁之を見付け矢庭に脇差を抜いて切りかからん気構なり主人聲をかけおまいの膽力見えた見えたと言へて賞されしとなん翁の父また相馬を戀ひ水戸を去り再び川房村門馬方に身を寄す……爾来幾星霜遂に今日に及ぶ祖父平生子孫に教ふるに勤倹忠実を以てし老躯と言えども安逸を貪らず丹精壮者を凌ぎ郷人の尊称する所なり翁また夙に基督教を信じ明治三十年八月二十二日家族五人を率ゐて宣教師ホーイ師より授洗したり自らアブラハムと称し人を教へ他を導き嘗て怠ることなしその信仰の篤くして誠神に透る人その徳を欽仰し翁を徳とせざるものなし然るに明治四十二(1909)年十二月三日七十八歳を以て溘焉として逝去す
【拾遺】
安藤姓を名乗ったのハ磐城平の藩主安藤姓を取ったとして家へ傅へし刀一振短刀(達磨正宗)ハ上り〇の紋ありて平藩の上役家老あたりの用ゐしものなりし馬具、陣笠の破れたるものもあった…(原文のママ、ただし〇部分は判読不可能。)」
※語句の説明
おまい…相馬弁でお前のこと
微行…身分の高い人などが身をやつしてひそかに出歩くこと
アブラハム…このことは杉山元治郎(1885-1964、農民運動家・政治家)の『土地と自由のために』の中の「私の農村伝道」小高時代の経験に出てくる。
溘焉[こうえん]として…人の死去の様について「とつぜんに」の意。

 長々と引用してしまったが、中にどうしても意味が取れない箇所が何か所かある。まず以前八戸に問い合わせてもそういう名の村はありませんと言われた川内村のこと、次に安藤姓を名乗ったのは磐城平藩の藩主(実際は老中)を取った、とあるが、平民の分際でそんなことができるのか。もうどこかで言ったことだが、これは禁制の思想家・安藤昌益と何らかの関係があることを糊塗するための作り話ではないか、などの疑問である。だが残された時間の中でそれらを究明するのはとても無理、諦めてます。

 いずれにせよ、会津から相馬への落ち武者だった父方の先祖も、天秤棒に担がれて相馬に流れ着いた母方の先祖も、もし我に小池一夫(「子連れ狼」の原作者)並みの構想力と文才あらば、二つを合わせて(?)血湧き肉躍る大時代小説でも書いたものを……無念!ちゃああーン!ちぇいすとおーッ!

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連想から妄想へ


 次々としなければならない雑用のため、連日あっという間に時間が過ぎてゆく。むかし勤め人だった時よりもむしろ忙しい。だから本棚の隅っこに隠れていた見たこともない本に出合ったりすると、嬉しいけれど困ったな、と思う。なぜなら、今や宿痾ともなっている古本蘇生術に取り掛からなきゃならないからだ。

 昨日も運悪くそんな本に出合ってしまった。本当に古い本、私の生まれる一年前、つまり昭和13(1938)年発行の改造文庫、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(斎田禮門訳)である。最近は購入日時を本の中扉あたりに小さく記すことにしているが、今日のように誰が買ったのか、だれが読んだのか全く分からない本がたびたび見つかる。

 私が買った覚えはない、美子の本でもなさそうだ。読んだ形跡もない。しかし改造文庫ということなら以前ばっぱさんのものを見つけたことがあった。書名は忘れたが、確かドイツの教育哲学者のものだったような気がする。福島女子師範時代に買ったものらしい。すると確率的にはこれもばっぱさんのものか。

 さっそく厚紙で表紙を補強し、百円ショップで買った猫柄の手ぬぐい地で装丁したが、先日来イスラム文化のことを考えていた時だったので、偶然ではあるがグッドタイミングの出会いであった。つまり十八世紀初頭(発表されたのは1721年)、小説仕立てのフィクションとはいえ、イスラム文化とキリスト教ヨーロッパの出会いを描いた作品だからだ。正確に言えば二人のペルシア人がパリで見聞したことを故郷の友人に知らせるという形で、実は作者の狙いは当時のヨーロッパ社会を風刺するという内容らしい(実はこれから読むところ)。

 フィクションとはいえ、ここで二つの文化が比較されているわけだが、もしかするとサイードのオリエンタリズム批判では、ヨーロッパ人が十字軍時代のように敵対者としてではないにしても、今度は西洋が東洋を見る視線の中に含まれる蔑視、つまり“表象(イメージ)による暴力”の端緒を作ったと批判されているのかも知れない(サイードのその本も読まないまま本棚に鎮座している)。

 ところでこのモンテスキューの作品のスペイン語訳が貞房文庫にもあることが分かって、今度はそれが気になってやおら捜索に乗り出した。しかし系統的な整理をしていないし、寄る年波で踏み台を使って高いところに上るのは怖いし、近くのものでも懐中電灯で照らさないと背文字が読めない。要するに今回探すのは無理、時間がかかっても少しずつ整理した暁での発見に希望を託すしかないか、と半ばあきらめたとき、これも偶然、古いが風格のある古本が目に入った。18世紀スペインの作家ホセ・カダルソの『モロッコ人への手紙』の原書である。これはモンテスキューの訳書よりさらに古い、何と1885年にバルセローナで出版されたスペイン古典草書の一冊である。これは清泉女子大時代に研究費で手に入れたものだが、マドリードのマジョール通り61番地のマヌエル・タラモナという弁護士の蔵書印が押してある。

 この本はモンテスキューの『ペルシア人の手紙』から数えて64年後の1785年に書かれた、やはりこれも書簡体小説で、前者がペルシア人ならこれはモロッコ人による当時のスペインの風俗習慣の実況報告の形を取っている。もちろんカダルソは執筆時モンテスキューの作品のことが頭にあったはずだ。

 こうして期せずして十八世紀ヨーロッパとイスラム世界の出会いと相互理解の物語が出てきて、これらをサイードのオリエンタリズム論に照らし合わせながら読むという面白い課題…課題?、聞いてないよ、だいいちそんな時間ないし…

 実はいま目の前にそれぞれ厚さ5センチ近い(袋とじ印刷だからこうなる)私家本が、しかもそれぞれご丁寧に布で表装されて積み重なっている。いずれ市販本にしたいものばかり。そのうちの一冊はスペイン語版作品集で、これはほぼ確実に出版されそうだが、問題は残りの三つの訳書、すなわち古い順から言えばダニエル・ベリガンの『危機を生きる(原題はThey call us dead men)』、アメリコ・カストロの『葛藤の時代』、そしてオルテガの『大衆の反逆』である。

 もっともあとの3冊についてはこの構造的出版不況の時代、無理に出すつもりはないが、それでも最終的な推敲を終えてないまま死後に残すのは避けたいものと、このところ頭を痛めている。なのにこんなとき、またもやこの男(私のことでーす)新たにアマゾンに本など注文している。自分でも意味の分からない(?)ふるまいである。

 そのうちの1冊は先日来の苦闘の後を引いてか、大江の健ちゃんの『暴力に逆らって書く 往復書簡』で、中の一人がサイードだし、それに例の破壊された価格の1円だからいいようなものの、もう1冊というより1組はな、なんと『新・子連れ狼』コミック全11巻なのだ。

 前述したように自分でも説明はむつかしいのだが、このところ時おり部屋に流している昭和歌謡曲の中の、橋幸夫の「子連れ狼」の歌(小池一雄作詞・吉田正作曲)を聴いているうち、無性に読みたくなったのは確かだ。萬屋錦之助や若山富三郎の映画にしろテレビにしろこれまで一切見たこともないのに、ここにきてトチ狂ってる。

 歌そのものもいいが、間に挟まれる若草児童合唱団の擬音の合いの手が実にいい。

 しとしとぴっちゃ、しとぴっちゃ、

も可愛いが、それよりいいのは、霜の朝の

 ぱきぱきぴきんこ、ぱきぴんこ 

が素晴らしい。

 繰り返し聞いているうち、例のごとく妄想が広がってゆく。つまり私は拝(おがみ)一刀で、時おり外に出て「涙かくして 人を斬る」が、家には三歳の大五郎ならぬ病身の美子がチャンの帰りを待っている。

 帰りゃいいが帰りゃんときゃあ
 この子も雨ン中 骨になる
 この子も雨ン中 骨になる

だからこの老いさらばえた拝一刀、外出しても死に物狂いで帰ってくる。
(まさかウソですよ。)

※31日の追記
 今日とうとう子連れ狼がやってきた。さてこれをどのように合本にしようか。迷ったが結局1-3,4-7,8-11に分けた。つまり都合3冊のぶっとい合本を作ったのだ。それぞれを厚紙で補強し、一見革に見える古いジャンパーの端切れを背中に張り、もともとの11枚の表紙絵から選んだ3枚をそれぞれの表紙に張り付けて、ちょっと見栄えのいい美本に仕上げた。
 「新」とついているのはなぜかなと思っていたら、要は拝一刀が柳生烈堂との果し合いで死んだ後、東郷重位(しげかた)という侍が大五郎の父代わりになって新たな旅立ちをするところから始まっているかららしい。昔からの愛読者ならとうぜん知っていることでも、拙者にはすべてが未知の世界である。まっ、手元に置いて、昼寝の時の誘眠剤(こんな言葉があったかな?)として読むことにしよう。

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