焼き場に立つ少年


 田上富久・長崎市長は平和宣言で、今年7月の核兵器禁止条約の採択を「被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間だった」と歓迎する一方、日本政府に対し、「条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」と批判した。

 (それに対し)首相は「真に『核兵器のない世界』を実現するためには、核兵器国の参加を得ることが不可欠だ。しかし、条約には核兵器国が1カ国として参加していない」、とし、「核兵器国と非核兵器国の隔たりを深め、『核兵器のない世界』の実現をかえって遠ざける結果となってはならない」と主張した。

 今日、長崎市で行われた平和式典での、相異なる二つのメッセージ。一見、安倍首相の見解は、長崎市長の理想論にくらべて、現在の世界状勢からみてより現実的で妥当なものと見えるかも知れない。しかし本当にそうであろうか。首相の見解は現に日本がアメリカの核の傘に庇護されていることへの政治的配慮、要するに悪しき意味での駆け引きに過ぎないのではないか。もし首相の言う通りだったら、日ごろから核廃絶をめぐってアメリカなど核保有国への必死の働きかけをしていそうなものだが、その姿勢は少なくとも現在まで全く見られないのはどうしたことか。

 どんなに詭弁を弄しようが、世界の非核兵器国からは核兵器国の仲間としか見られていないのは明らかであろう。そして核兵器国からは自分たちの姿勢を是とし擁護する強力な助っ人と見られていること、これもまた明らかな事実である。しかし日本がとるべき姿勢は、唯一の被爆国として先ず非核兵器国の側に身を置き、しかる後その立場から核兵器保有国に対して執拗かつ持続的に核廃絶を訴えていくべきではないのか。とるべき立ち位置が最初から逆なのだ。

 そんなことを改めて強く感じたのは、今日もネットの画面にあの「焼き場に立つ少年」の写真見たからだ。見ているうち胸が苦しくなり、涙があふれてきた。涙腺が緩くなった耄碌爺さんの涙だなんて茶化さないでもらいたい。まだ見たことのない人がいたら、「焼き場に立つ少年」で検索したら、すぐ見れるはずだから、どうか試してください。

 撮影者はジョー・オダネルさん。彼はこう説明している。 「炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいる」「少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました」

 オダネルさんは 1922年5月7日に生まれ、2007年8月9日に死んだ元従軍カメラマン。今日初めて気が付いたのだが、彼が死んだのが奇しくもまさに今日、つまり長崎に原爆が投下された日と同じ日だということだ。ついでに言うと、以前彼の名を初めて聞いたとき、私の高校時代のペンパルのマリーさんと同じ姓ではないかと思っていたが、今日初めてそのスペルJoseph Roger O’Donnellを見てそれも確認できた。私はオドンネルと発音していたが正確にはオダネル、つまりアイルランド系アメリカ人の名だということ。ちなみにマリーさんは私と相前後して修道院に入ったが、これまた相前後して還俗し、最近は全く音信不通になってしまったもののやはり結婚して、たぶん今頃はいいおばあちゃんになっているはず。

 思わず余計なことまで書いてしまいましたが、ぜひオダネルさんの写真「焼き場に立つ少年」を見てください。お願いします。私は画像をコピーし、見たいとき、つまり自分の心に平和への強い覚悟を注入したいとき、いつでも見れるようにしました。いつの日か、出る涙が喜びの涙に変わることを切に願いながら。

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転生譚


 どうにも頭がくしゃくしゃして、なんとかしゃきっとさせたいとき、いつでもではないが目の前の手作り書棚にある何冊かの小型本から適当なものを選んでその場を凌ぐ。今朝もそんな状態なので、そうだ今朝はラテン語の『デ・イミタチオネ・クリスティ』(キリストに倣いて)でも読もうとして探したが、見つからない。それで手にする頻度が一番高い志賀直哉の短編集(文庫本3冊の合本)を引き出し、たまたま開いたページの「転生」を読み始めた。現在準備中のスペイン語版作品集に収録予定の自作短編にも同名のものがあったことをついでに思いだしながら。果たしてその題名、志賀直哉から借りたかどうかさえもう忘れているのだが。

 とにかくゆっくり読んでみて、内容はほとんど忘れていたが、なかなかいい作品、というより胸にストンと落ちる好短編だった。癇癪持ちの夫と、ちょっと気の利かない妻の話で、途中からお伽噺に変わり、また現実世界に戻るという筋立てである。お伽噺の部分が痛切というか哀切な話になっていて、思わず眼がしらが熱くなったほどである。

 つまりいつもの口喧嘩というより夫の一方的な叱言(こごと)のあと、夫はこう提案する。こんど生まれ変わるとしたら、夫婦仲がいいと言われるキツネ、いや鴛鴦(オシドリ)になろう、と。さてそこからお伽噺の世界に入る。

 先に逝った夫は約束通りオシドリになったが、だいぶ後に死んだ妻は、転生の時になって迷ってしまう。つまりあれはオシドリだったかそれともキツネだったか、と。そして夫からの「お前は何かを選ぶとき、きっと悪い方を選ぶ癖がある」との忠告を思い出してさらに迷い、この場合自分がいいと思うものを選ぶより一見悪いと思えるものを選んだ方が正解になる、と考え、キツネになることを選ぶのだ。

 こうして悲劇が始まった。冥界に行っても相変わらずトロい妻は、餌になる小動物さえ捕まえられず、空腹状態で川岸にたどり着く。そしてそこに先着していた夫のオシドリに出くわす。キツネは空腹のあまり意識朦朧となりながら、それでももしかして自分の思い違いで夫はオシドリになっているのかも知れない、と一生懸命自制しようとするのだが、しかしついに我慢ができず、気が付いた時にはすでにそのオシドリを食べた後だったというお話。

 作者は「これは一名<叱言の報い>と云ふ大変教訓になるお伽噺である」と締めくくっているが、むしろ読後に感じるのは夫の癇性を温かく包む妻の聡明さ、人間的な大きさである。一般的には、古い家父長的な感性の持ち主と思われがちな志賀直哉の人間性の深さが見事に表れ出た作品である。

 話は急に飛ぶが、安倍一族(鴎外の「阿部一族」をもじって)、中でも安倍チルドレンと呼ばれる者の中には修身教育の復活を目指すような素っ頓狂な女性が多いが、でも豊田代議士にしろ稲田元防衛相にしろ、修身教育とは真逆の、つまり古い男女観とは相容れないばりばりのフェミニストなのはどうしたことか。我こそはイチバンという悪しき個人主義が露骨に現れていて、良い意味(?)でのフェミニストたる私でさえ鼻白む。

 話はまた飛ぶが、家(うち)の(という言い方にすでに眉をしかめるご婦人がいるかも知れないが)美子は、「亭主元気で留守がいい」という一時期流行ったコマーシャルの意味が本当に分からなかったくらい亭主べったりだったが、しかし人間的には私なんぞより数倍も大きいし強いと昔から思っていた。事実、大げさでも美談狙いでもなく、いまの私は、掛け値なしに美子に支えられ包まれて生きていると思っている。ついでに言わせてもらえれば、生まれ変わってもオシドリなんぞにならず、可能なら今のままの孝・美子になれれば本望である(それは無理か、ならパンダがいい)。

 さすがに座が白けてきたようなので、今日はこの辺で、♬ ♪

※ その日のうちの追記 なぜパンダかつーと、大昔、スウェーデン船籍の豪華客船でバリ島まで無料招待されたとき、毎晩仮装パーティーとかがあってー、美子はマリー・アントワネット風の衣装を見っけたけど、おいらに合う衣装が無く、そんで体形的に無難なパンダに化けたことがあったからさ。なんならその時の写真も残ってるよ。でも転生と仮装は違うか。お呼びでない? こりゃまた失礼しました!(古い植木等のギャグ)

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八月は死者の月


 最近ではコマーシャリズムにまんまと乗せられて本来の宗教色抜きの馬鹿げたハロウィンが盛んになって来たが、キリスト教国では十一月(一日が「諸聖人(すべての死者)の日でその前日がハロウィン)が死者の月。日本ではひと月遅れの盂蘭(うら)盆(十五日)のある八月がそれに当たるのであろう。もちろん私の中では六日・九日の原爆投下記念日と十五日の終戦(正確には敗戦)記念日のある八月が戦後新たな意味で死者の月となっている。

 実は先日、或る新聞社から平和についての短い原稿を依頼されたのだが、その返事に月末までなら何とか書きましょう、と連絡したあと、その月末が私の中では七月末と意識されていたことに気付き(すでに八月に入っていたのに)、慌てて、せっかくの機会だから十日ごろまでに書きます、と伝えたところだ。つまり恥ずかしいことにこの暑さのせいか、それとも歳のせいか、いや後者であろう、ボケは曜日の混同をはるかに越えて、今や月の混同にまで進んだわけだ。

 ともあれ、最近の防衛相更迭をめぐる馬鹿げた政治劇を見るにつけ、今や日本人の中に八月を死者の月とする意識が消えかかっているのではとにわかに心配になってきた。確かに毎年戦死者にまつわる各種式典が開催され、それが報道されることはあっても、一般にはどこかの花火大会レベルまで成り下がっているのではないか。昨夜そんなことを考えているうちに、どうしても依頼原稿を書きたくなって、一気に書き上げ、たぶん今日明日は休みであろうが手元に置くと際限なく手を入れる危険があるので、今朝送信したところである。採用された場合は、また上の新聞掲載欄に収録するつもり。お楽しみに。

 月の取り違えもそうだが、最近とみに年齢を意識するようになった。原稿にも書いたが、何かと物議をかもしている安倍首相は昭和29年生まれ。普段そんな言葉遣いなどしたことがないが、十四年生まれの私からすれば彼など「ほんの若造」である。半世紀近く前(ワオーッ)「戦争を知らない子供たち」(北山修作詞・杉田二郎作曲)という歌がヒットしたが、稲田にしろ安倍にしろ、戦争の悲惨さなど体験したことのない世代、まさに戦争を火遊び程度にしか考えない危険な「若者たち」である。

 ところで今我が家は少し寂しくなっている。一昨日から来週月曜まで、頴美と愛はシスターたちの企画した神戸までのツアーに招待されて留守だからである。逆にその前日は、友人のロブレードさんに先導されてスペインのテレビ局の三人が取材に訪れ、この陋屋も国際色豊かに賑やかだった。インタビューの前、女性ディレクターからカメラに目線を向けないで、私の眼を見て話してください、と言われ「それは私にとって願ってもないシチュエーション」と軽い冗談をかますことはできたが、いざカメラが回り始めると、さび付いたわがスペイン語、果たして言いたいことが伝わったかどうかは大いに疑問である。ただし大事なところはロブレードさんの通訳入りだったのでなんとか切り抜けることができた。それにベッドに寝ている美子も撮ってくれたのは嬉しかった。さてどんな番組になるかは想像もつかないが、できあがったら電送してくれるそうなので、その時は上の「メディア掲載履歴」に載せるつもり。これもお楽しみに。

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遅すぎた覚醒


 先日、執行さんや立野さんたちとの会話で、話題がたまたま蔵書整理に及んだとき、お二人は異口同音に同じ本を再度購入することがあると嘆かれた。それに対して私は、すべてネット(貞房文庫)に登録しているから重複することなどないと言い切ったのだが、昨日と今日にかけて二冊も二度買いしていたことに気付いて落ち込んでいる(でもないか)。

 一つはこのところ早乙女貢の『会津士魂』に刺激されて、会津藩出身者の本を(もちろんすべて例の破壊された値段近くで)何冊か注文したのだが、そのうちの一冊、中村彰彦の『二つの山河』(文春文庫)の表紙絵をどこかで見たような気がしながら注文したあと、貞房文庫の著者名検索で、読まれないまますでに我が家のどこかにあることが分かったのである。これは徳島の板東収容所の所長、真のサムライと讃えられた会津人・松江豊寿の伝記で直木賞受賞作品である。話の内容は以下の通り。

 大正初め、第一次大戦でドイツに宣戦布告した日本は、中国大陸で多数のドイツ人を俘虜とし、日本に送った。多くの収容所は過密で環境は劣悪だった。そんな中、徳島の板東収容所では実に寛容な処遇がなされた。彼らも祖国のために戦ったのだからという所長のはからいで、ドイツ人俘虜によるオーケストラが結成されたり、日本人将兵・市民とドイツ人俘虜との交歓が実現したのだ。彼が陸軍の上層部に逆らってまで信念を貫いたのは、国のために戦ったにもかかわらず逆臣の汚名を背負って辛苦をなめた会津出身者の思いからだった。

 もう一冊は、朝日新聞テーマ談話室編の『戦争』である。つまり一方は単行本上下2冊、もう一方は文庫本3冊と見た目も違うし、登録の際、発行所が前者は朝日新聞社(1987年)、後者は朝日ソノラマ(1990年)だから、という言い訳も成り立つが、しかしどちらも読んでなかったことがこれでバレバレ。面目ない。

 文庫本の方はとっくに分厚い合本になっていたが、今日は罪滅ぼし(?)の意味を込めて単行本2冊を見栄えのいい合本にした。そして作ったあと、適当に何篇か(つまり読者の短い応募原稿から成っている)を読んだのだが、読んでいるうち不覚にも涙がであふれてきた。終戦時6歳そこらであった者にしか分からないだろう感情の動きである。

 いやこれは私だけの追体験や懐しさで終わらせてはいけない。これまで意識して戦争体験(もちろん少年時の)を語ったことも書いたこともあまりないが、しかしこれからは機会あるごとに語り継いでいかなければならないと思い直した。特に現今の防衛相をめぐるドタバタ劇を見ていると、その感を強くする。あんなやつらにまたぞろ戦場に駆り出されるようなことは絶対に許せない。辞任発表後、只今の心境はと聞かれて、彼女にこにこ笑いながら何て言ったと思う? 「空です、空」 ザッケンジャナーーーーイッ 禅問答じゃあるまいし。クウ? お前の頭んなか脳みそなんかこれっぽっちも無いってことかーっ!

 おそらく安倍親分のため自分は犠牲になったんだなんて思ってるんだろうな。つまり救国のジャンヌ・ダルクを気取ってんだろ。でもお前になんぞ国が救われてたまるかってんだい。せいぜい親分の何か月かの短い政治生命の延命にしかならないんっだっちゅーの。

 先の話に続けて言うと、会津藩関係のいわば基本文献の一つ、山川浩の『京都守護職始末』、上下、平凡社東洋文庫(1972年、8刷)も手に入れたのだが、実はこれは弟の健次郎、すなわち物理学者で、アメリカへの留学後、東大の物理学教授、のちに東大、九大,京大それぞれの総長となった健次郎が兄の後を継いで完成させたものらしく、これの現代語訳をしたのが金子光晴、そして校注を遠山茂樹がやるという豪華な布陣である。

 とここまで来たなら、中村彰彦の会津ものをさらに読んでみたくなったのは自然の流れでしょう。『会津武士道』(PHP文庫)と会津藩士・秋月悌二郎を描いた『落花は枝に還らずとも』(中公文庫)も注文しました。しっかり読まないまま手元にあった星亮一の戊辰戦争関係のものや、明治33年の北清事変での沈着な行動に世界から称賛された柴五郎の『ある明治人の記録』など、とうぶん会津ものにのめり込みそうだ。

 それにしても明治維新再評価のための大事な文献がすでに、しかもかなり公刊されているというのに、「偽りの明治維新」(これは星亮一の作品名の一つ)観がいまだに一般的な見解であり続けているのは、いちど作られた歴史観が修正されるのにかなりの時間を要することの恰好の例のようだ。私自身がこれまで全く考えもしなかった歴史解釈の盲点なのであろう。長州イデオロギーの後継者がなおも日本政治のかじ取りをしているのだから、道なお遠し、なお険し、である。遅まきながら拙者もこれから死ぬまで何とか頑張る所存でござる。

※ 翌朝の追記 合本にした『戦争』、1100ページにもなる重厚な本となって卓上に置かれている。今朝も数編を読んだが、胸に迫って苦しくなる。よし、死ぬまで毎日(ちょっと無理か)、いや少なくとも当分の間、数編を読むことを日課としよう。4200通もの貴重な証言である。今朝はシベリア流刑のため行軍する部隊の話だったが、出発前にソ連兵の上官から悪いけど落伍者は銃殺して行軍する、と言われてその覚悟をしていたら、ある中継地の小屋で疲労と空腹で寝ることもできず互いに身を寄せ合っているところに、若いソ連兵が背中にたくさんの背嚢、そして両手に年老いた日本兵を四人も引っ張ってきてくれたのだ。心からなる「スパシーボ!」の大合唱を背に、そのソ連兵は恥ずかしそうに去っていった。
 投稿者の半数はもう他界しているだろう。でも悲惨な戦争そして戦場体験者の声を日本人すべてが心して聞き続けなければなるまい。貴重な本に出合って本当に良かった。

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しょんない話と…


 この猛暑である。実の無い話に続いて今日はしょんない話でも。「しょんない」は静岡弁で「どうにもしょうがない」と言った意味である。静岡に3年ほど暮らしたが、方言らしきものとして記憶に残った唯一の言葉である。例えば北海道弁の「はんかくさい(半可臭い)」や東北弁一般の「わがんね」よりはるかにおっとりした非難の言葉である。今回それを使ったわけは、以下最初に紹介するものに二重の(?)意味でふさわしいからである。二重? それは各自判断していただきたい。

 最初どこで目にしたかはもう覚えていないが、要するに哺乳動物の放尿時間(すみません、いきなり尾籠な話で)が、体の大小にかかわらずおおむね21秒であるという、それこそしょんない話である。以来、無意識裡に放尿時「1,2,3…」と数えるようになってしまった。すると不思議なもので、もともとそうだったのか、あるいは体の方でそれに合わせるのか、は分からないが、だいたい21秒かかることが分かった。

 どうにも気になるので、昨日、インターネットで「哺乳動物の放尿時間」で検索してみたら、意外な、いや当然予測できたであろう情報が出てきた。1991年に創設された例のイグノーベル賞(Ig Nobel Prize)、つまり「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられるパロディ・ノーベル賞ですでに受賞した学説(?)だったのだ。もっと詳しく言えば、
【2015年イグノーベル賞[物理学賞]】
受賞者:David Hu 氏[米国and 台湾]、Jonathan Pham氏[米国]、Jerome Choo[米国]
受賞理由:ほぼ全ての哺乳類で小便時に膀胱(ぼうこう)が空になるまでの時間は平均21秒(±13秒)であるという生物学的原理を解明したことに対し。

となっている。±13秒というのは幅があり過ぎ、というかちっとも科学的(?)でないのが笑いを誘うが、もともとふざけた賞なので許してやろう。でも三人のいいおっちゃん学者が大真面目で猫ちゃんやワンちゃんやの放尿時間を計ってるの図はなんとも微笑ましい。哺乳類というからには海に潜ってクジラのそれをも計ったんだろな。

 しょんない話だけでは申し訳ないので、それよりかは少し真面目な話を。実は先日訪ねてくださった執行さんたちとの会話の中で、もしかすると父方の先祖が竜馬を暗殺したと言われる佐々木只三郎となんらかの関係があるかも、と言ったのを覚えておられて、後日安倍さんを通じて映画『竜馬を斬った男』のDVDが送られてきた。1987年、山下耕作監督、萩原健一主演のアルマンス企画の映画である。萩原健一が佐々木只三郎 を、根津甚八が坂本龍馬を演じており、第11回 日本アカデミー賞(1988年)の監督賞と助演男優賞(根津甚八)を取っている。実はDVDが送られてきたころ、補聴器の不具合で試聴できず、その代わりに原作となっている早乙女貢の同名の短編(集英文庫)と峰隆一郎とかの『剣鬼 佐々木只三郎』をアマゾンから取り寄せたのだが、後者はなんのことはないサムライ・ポルノで数ページ読んだだけで気分が悪くなりゴミ箱入り。しかし前者は短編ながら迫力があり、なかなかの傑作である。それでこれも何かの縁、これまで全く調べたことのない幕末と会津藩について知っておくのもいいだろうと、早乙女貢の畢生の大作『会津士魂』13巻(集英社文庫)と、ええい!ついでとばかり『続・会津士魂』全8巻を頼んでしまった。割安料金はいいとして、読む時間などあるのかいな、などど自問しながら。

 届いた『会津士魂』はさっそくそれぞれ千ページ近い4冊の合本になって机の横に鎮座ましましている。「続」の方もいずれ揃えばやはり2冊の分厚い合本になるはず。

 かくしてこれまで全く興味のなかった幕末そして明治維新にようやく関心が向かい始めたのだが、その理由は幕末、薩長を中心とする尊攘派のテロ、不逞狼藉を取り締まるために京都守護職を任ぜられ、慶喜のみならず朝廷からも篤い信頼を寄せられていた会津藩が、薩長を主力とする尊攘・倒幕派の画策によっていつの間にか朝敵とされ、あの悲劇の戊辰戦争にまで追い込まれたことの不思議さ、理不尽さにようやく気付いたことによる。

 ところでいただいたDVDに執行氏の以下のようなコメントが入っていた。もしかするとこれに242という番号が入っているから、先日帰りの車中で立野さんが執行さんから聞いたという「執行草舟推奨映画700編」の一部かも知れない。【あらすじ】に続いて【草舟私見】とあるので、勝手ながらそれを全文以下にコピーさせてもらおう。

「竜馬を斬った男が誰れであったのかは歴史の謎である。本作品の主人公である旗本そして見廻組隊長であった佐々木忠三郎はその最右翼に列せられている男である。私もこの推理が一番正しいであろうと信ずる者の一人である。只三郎と云ふ人物の魅力が全編に溢れる名作と感ずる。歴史の転換期に於てはやはり旧い体制を背負ふ側に魅力的な人物が多い。革新側は超大物が何人か魅力を発散させているが、その下部に至る多くの人物に関しては必ず体制側の方に軍配が上がる。その理由としてはやはり歴史と責任を背負っているからだと感ずる。従って正統な人物として秀れた人が多いのである。革新は必ずひがみと出世願望組が下部にはびこるのである。只三郎の様な佐幕に殉ずる生き方は人間として私は好きである。それにしても竜馬と云ふ人物は私はあまり好きに成れない。まず彼の能力がその背負ふもののない無責任さから本質的に出ている様な気が私にはするからである。そして新しいもの好き※で礼儀知らずな点も嫌ひである。竜馬はあそこで死んで最も良かったのだと私は思っている。彼は明治まで生きれば必ず馬脚の出る人物であると感ずる。」

 なるほど、竜馬についてはほとんど何も知らない私が漠然と感じていたことを執行さんは言い当てているのであろう。司馬遼太郎は、そして武田鉄矢は少し、いや過度に彼を持ち上げたきらいがありそうだ。乱暴に言い切ってしまえば、それまでは御門(みかど)が現在の象徴天皇制に近い形で、つまり政治的権力としてではなく文字通り祭り事の主宰者として機能してきたものを、薩長新勢力は自分たちの政治的野望を実現するための尊王思想を振りかざことによって、それを私用し、ついにはそれが日本軍国主義の異常増大を招き、果ては太平洋戦争へと突入していくわけだ。

 とにかくこれまでは「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉を何の気なしに聞いていたが、父方の先祖が会津の落ち武者、しかも死んだ叔父(11人兄弟の末子)の言によれば、佐々木家は竜馬暗殺者とされる佐々木只三郎と何らかの縁があるという、今となっては確かめようもない言葉をきっかけに、この歳になってようやく自分にも関係のある歴史として迫ってきたわけだ。でも今さら考えるまでもなく、自分のルーツについて何の問題意識も持たないできた方がおかしいし異常なんだということがようやく分かりかけてきた。これはなにも歴史に名を残した先祖たちのことだけでなく、すべての人の来し方を考え、そして行く末を予測する機会やら欲求を削いできたのが日本の歴史教育の根本的欠陥であることは間違いない。それについてはすでに2015年7月24日のアレックス・ヘイリー『ルーツ』(安岡章太郎訳)に触れて書いているので参照いたければありがたい。

以上、しょんない話と少しは実のある話でした。

※ 翌朝の追記 竜馬の新しいもの好きは彼の短銃愛好にもっともよく表れていよう。「飛び道具とは卑怯なり」という言葉は、いわば武士道の鉄則のはずが、彼においては全く顧慮されていない。いずれにせよ人を殺めること自体の是非を別にすれば(?)、剣は少なくともその使い手の肉体と精神が相手を殺傷する最後の瞬間まで切り離されることはない、つまり責任の所在がはっきりしている。しかし相手を狙って撃たれた鉛の弾丸は使い手の肉体と精神から秒速何メートルというスピードで分断される、つまり責任の所在が人手を離れて非人格的な(?)無機質物体の物理運動に変化してしまうわけだ。
 ノエル・ペリン著『鉄砲をすてた日本人 日本史に学ぶ軍縮』(川勝平太訳、紀伊国屋書店、1984年)によれば、鉄砲到来時まもなくして日本は当時の欧米諸国のいずれよりも鉄砲の数において凌駕していたが、しかし間もなく鎖国日本でその技術は兵器から花火へ転換され、あとは畑を荒らすイノシシ退治ぐらいにしか使われなくなったそうだ。要するに竜馬は短銃の個人使用だけでなく欧米からの武器輸入を画策するなど、後の大量殺戮を可能にする近代兵器導入を加速させた男であったことは否定できない。
 あなた、それでもなお竜馬を崇めますか? 

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