【再掲】モノディアロゴス書評

モノディアロゴス 、つまり佐々木孝とは何だったのか。
故人の尊厳と正義のために、それを世に示しておかねばならない。
晩年の父の最も良き理解者、読者であられた明治大学名誉教授・立野正裕先生、そして阿部修義さんが父の生前に執筆されたモノディアロゴス書評が、今、佐々木孝という人間の決定的評伝として、その重要性がいや増していることに気づいた。
改めてここにその玉稿を掲載させていただく。



『モノディアロゴス 第十四巻』――「真の対話を求めて」を読んで

阿部修義

 『モノディアロゴス』は二〇〇二年七月八日から書き始められ、十五年の年月を経て第十四巻が昨年刊行された。表題にある「敬老祝い金」や「名著の言葉(オルテガ)」にあるように、日常のありふれた光景からスペイン思想の根源にある深い洞察まで、幅広い話題を表題に使われ、筆者である佐々木孝氏こと筆名富士貞房氏の視座から物事の核心を掘り下げ、時にはユーモアを交えながら綴られたエッセイと解釈していますが、筆者はエッセイとか小説のジャンルを超えて、書き手の自由な自己表現の場と言われています。私は二〇一一年、震災の年の十二月から著者の文章に対してコメントを毎月欠かさず書き続けている一読者であり、筆者のことを敬意を込めて貞房先生と呼んでいる。第十四巻を改めて読み返して、スペイン思想研究、とりわけオルテガにも影響を与えたスペインの哲学者ミゲル・デ・ウナムーノ研究の日本の第一人者である先生は、題材として「人間のロボット化」、「憲法改正」、「介護の問題」、「旧約聖書」、「ゲバラ」、「安藤昌益」、「小熊英雄」、「オルテガ」などを取り上げられ、それらの題材に先生の該博な知識を文章の中に織り交ぜながら、決して上から目線の威圧感はなく、低い所から小さなもの、弱いものを見つめ、その小さき声に静かに耳を傾け、そこからの視座で読者に語りかけるような平易な言葉で文章を綴られている。その主旨は豆本『平和菌の歌』の歌詞にあるように平和な社会への熱い願いである。読み手も自ずと魂の重心を低くして、文章の行間にある意味や読後の文章の余韻を感じ取らなければ、先生の意図するところは決して掴めないのではないかと私は感じている。「魂の重心を低く」とは、あたかも遠くにある山々を眺める時の眼差しで、目の前にいる人たちを見つめると、その人たちの心の動きがわかるような感覚に似ていると、私は考えている。
 第十四巻の表題「真の対話を求めて」で先生は「〈ひとつの心に重なる心〉こそが人間と人間の相互理解の基本中の基本」と言われています。建前ではなく、本音の部分をお互いが引き出し合ってこそ実のある対話へと繋がるのでしょう。それは共感力と言っても良いと思います。相手の異質性を認め尊重する、つまり固定観念を持たないということだと思います。そして、もう一つ大切なことは、お互いの信頼関係を築くことです。この信頼関係は効率や利便性を追求する事と対極のところにありますから、時間をかけ、非効率の中にあって初めて生まれるものなのです。人間は人と人との繋がりの中で、それぞれの心の響き合いを通じて生きがいが生まれるのでしょう。個人の利益の最大化を求めて突き進んだ先には、今の時代がそうであるように、人生の空しさや憂いしか残らないように私は感じます。そういうものが、人と人との対話における一つの危険因子になっているという認識を持つことが大切だと思います。
 先生の手作りの豆本『平和菌の歌』の歌詞に「ケセラン・パサラン コモパサラン」というリフレインがあります。先生は、それを「今日やるべきことを、しっかり、まじめにやる」と訳されています。理想を追い求めて、無闇にジタバタするのではなく、今、置かれている自分の場所を直視し、それに向かって真摯に、しかも地道に継続していく大切さを繰り返し強調されています。この世の中には、目には見えないたくさんの美しいものがあると思います。「平和菌」も、まさに、そういう存在なのです。目に見えない美しさは、人間の「気づき」であり、想像力がなければ、決して見ることはできません。見た目が汚い、醜いものの中にこそ、美しいものがこの世にはたくさんあるのです。
 貞房先生は「誠実さ」や「愛(キリスト教の神の愛)」を実践され、人間の宿命というべき「死」をも乗り越えさせてくれるものを先生の人生を通じて、私たちにご教示くださっていると私はいつも感じています。自分の実人生の伴走者として『モノディアロゴス』と共に、これを繰り返し読み、よく昇華して、さらに実践する。スイスの哲学者カール・ヒルティはこんなことを言っています。「キリスト教は、聖書に書かれてあることを実際に試してみて、初めて学ぶことができる」。つまり、頭の中だけではわからない、行動を伴ってわかることがあることに気づくことが大切です。昨今の北朝鮮問題など、真の対話が求められている世界情勢の中で、まさに、『モノディアロゴス』は、私たちの潜在エネルギーに生命を与え、平和への扉を聞かせてくれる、先生の言葉を借りれば、「チチェローネ(道案内)」なのです。

余滴
 人と人との出会いとは、まことに不思議なものだと還暦を過ぎてみて、つくづく実感しています。先生との出会いもNHKの「こころの時代」を私が学生のころから見ていて、二〇一一年の大震災による原発事故の特集番組として「こころの時代」に先生が出演されていたのが切っ掛けでした。美子奥様の介護のため避難しなければならない状況の中で、南相馬市のご自宅を離れずに、「魂の重心を低くして、自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の心で感じる」という先生の生き方そのものの哲学を映し出すように、先生ご自身が厳しい環境の中で美子奥様の介護に終始徹し切られたことに私自身が感動したからです。
 『モノディアロゴス』二〇〇二年七月二十二日「記憶の修復」の中で、先生はこんなことを言われています。
 「人間とは、世界とは、と人生の意味を求めて膨大な資料を駆使しつつ大作『戦争と平和』を書いたトルストイも、晩年にいたってふと気がつく。人生はその時水平にではなく垂直に生きるものとなる。広げるのではなく掘り下げるものとして現れる。」
 これは、価値の基準を大衆的なものに置くのか普遍的なものに見出すのかということだと思います。普遍的なものは、常に高さ、深さの次元に存在する。
 今年の十一月十七日、先生と美子奥様は結婚五十周年を迎えられます。ご自宅から半径一キロの世界に生きると決められ、美子奥様の介護に日夜専心されている先生の生き方は、そのまま『モノディアロゴス』の根底に流れている思想であり、それはまた、普遍とは何か、永遠なるものの価値を読者に示してくれていると思います。人生の終着点に死があるなら、人は「心の平安」を求めて生きるしかない。普遍とか永遠の中に、その原点があることをわれわれは知らなければならない。

(2018年6月20日、文芸雑誌『トルソー』第三号より所収)




独自の地平を切り開く新しい文学の試みと実践!

立野正裕

 アランはルーアンのローカルな新聞にコラムを書くのを自己の思想と批評の実践とみなした人だった。政治、経済から教育、宗教、文学、芸術、存在論などにいたる人間生活の万般を主題として健筆をふるった。本書『モノディアロゴス』もまたその血脈に連なる営為の所産であると言っていい。

 the fugitive(逃れ行く者)と自らをみなす現代の思索者が、中央からの視線ではなく、現代日本において沖縄と並び、いわば最も「危機的な地点」である福島に発想の根拠を置き、「魂の重心を低く」保ちつつ、そこから現代のハイテク情報発信手段であるブログを通じて、抽象的な概念やソフィスティケートされた専門用語や術語によらず、あくまで日常語を駆使し、ときに相馬方言すら交えて読者を哄笑させ、足元の日々を凝視すると同時に、日本および世界の動向へと批評的な視野を自由に拡大し続ける柔軟でユニークな、しかも右顧左眄することのない独自の思考のスタイルを確立したのである。

 本書は著者の日録という趣を持つ。だが、こうして一冊にまとめられてみると、たんに日録の一年分をくくったというようなものではないことに気づかされる。日々を貫くのは有機的な全体性を持った粘り強い思考である。そこから結実した本書は一種独特の文学作品であり、一種独特の思索の書であり、一種独特の小説であると言っても過言ではない。

 著者はつい先ごろ『モノディアロゴス』第13巻の刊行を果たしたばかりである。
 通算13巻! その旺盛な日々の執筆力と持続する精神とに心から敬服しないわけにはいかない。モンテーニュの『エッセイ』、アランの『語録』、アミエルの日記、森有正の日記、そしてウナムーノの Diario íntimo などがたちどころに想起されるが、質においてそれらにほとんど比肩し、量においてはすでにそれらを凌駕していると言わなくてはならない。

 なにをきっかけに自分がモノディアロゴスの愛読者となったのか、たんなる偶然だったのか、それともしかるべき経緯があったのか、それははっきりとは覚えていないのだが、とにかく著者「佐々木孝」をウナムーノやオルテガの研究者として、なかんずくウナムーノの代表的な小説『聖マヌエル・ブエノ』の訳者として、その作品を漱石の『こころ』と初めて関連づけながら真剣に考察した人として、自分がながいあいだ印象深く心にとどめてきたことは事実だ。
 それゆえ、『モノディアロゴス』を読んでいると、「野に遺賢なし」の逆で、まさに「野に遺賢あり」と言いたくなってくるのである。

 現に著者の『ドン・キホーテの哲学―ウナムーノの思想と生涯』(講談社現代新書)は年来わたしの愛読書であり、古書店で見つけるたびに購入し、若い意欲的な友人たちにも一読を進めるのを常としてきた。再刊される価値のある本だが、何年も品切れとなっているのは残念でならない。この『モノディアロゴス』第1巻も店頭ではなかなか見かけなくなっている。さいわい続刊は最新刊第13巻にいたるまで著者の手で私家版が作られており、希望者は実費(各巻850円から1000円程度)で送ってもらえる。(アクセスは簡単だ。インターネットで「モノディアロゴス」を検索すればいいだけである。)

 およそ商業主義とは無縁の、独自の地平に耕された思考の軌跡がここにはある!

(2016年11月7日、Amazon.co.jp カスタマーレビュー)

【お詫びとお知らせ】

まことに申し訳ありませんが、父の急逝により、父の私家本の製作、ご提供は再開の目途が立っておりません。またHP、ブログも改編が急務となっておりますが、諸般の事情により、そのままとなっており、混乱を招いておりますことをお詫びします。

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