前回投稿(「もっと自由に!」)を受けて

父の生前より、モノディアロゴスに対し、随時頂戴してきた明大名誉教授・立野正裕先生からのコメントは、システムの問題で、途中から他の媒体より、ご許可を得て転載する形を取っている。今回も「思い浮かんだままを一筆書きにしましたから意を尽くしませんが、転載はご随意になさって下さい」とお書き添えの上、ご許可をいただいたので、先に転載したコメント欄のメッセージをこちらに移したうえで、その後の交信を以下にご紹介したい。 水色の背景色になっているのが、立野先生からのコメントです。

明大名誉教授の立野正裕先生からさっそくメールでいただいたコメントを、ご了承を得て以下にご紹介いたします( 2019 年 5 月 11 日 19:14 )。

①第1信

それはさておき、たったいま先生の懐かしい文章を読み、それが書かれた当時、もしお会いできていたら、どんなに意気投合したことだろうと改めて思う次第です。わたしも同僚たちから爪弾きされながら、同趣旨の意見を教授会をはじめあらゆる会合で口にして止みませんでした。 個を強くする、とうたいながら、個の埋没を要求するような学園の体質に、異議申し立てを文書でしたこともありますが、それが1990年代前後のことでした。先生の書かれた文章はそれより数年前に公表されたわけです。 わたしが所属していた文学部は教員だけでも100名を数える大所帯ですが、肝胆相照らす仲になり得た同僚はついに一人として存在せず、多少親しい同僚や先輩からさえ、いいかげん青年客気を卒業しておとなになれ、としばしば忠告と揶揄の両方を含む言辞を浴びせられたものです。 先生を存じ上げていたなら、たとい書簡のやり取りを通じてでも、大いに意を強くするような意見や論評が期待できたにちがいありません。 しかし、時節はたがえど、同時代の一時期を親しく交流させていただいたことは、なんといってもわが身の幸運にほかなりません。 アップされた文章を、ひとかたならぬ懐かしさとともに読ませていただいた所以です。

②第2信

淳さん、拙文掲載はご自由にどうぞ。母校文学部のために一言弁ずれば、半世紀前は自由の気風があったのです。そうでもなければ、わたしのような跳ねっ返りがスタッフに採用されるはずはありませんでした。したがって現役教師の時代、おれを見よ、いま諸君の前に立っている人間こそ正真正銘のメイジだぞ、と始終胸を張っていたものです。エッケ・ホモとは、いまになってみれば笑止ですが、本人はどうも半ば以上は本気でそう思い込んでいたらしいです。

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先生、素敵なコメントをモノディアロゴスでご紹介させていただきました。有難う存じます。

改めて自分の文を読み、苦笑いしています。しかし、老いても終生青年の客気を失いたくありません。青臭いと人が言わば言えです。

先生、とんでもございません。お寄せいただいたお言葉で父の伝えたかったことが、さらに厚みを増しました。それにしても、今の大学は、管理教育の最終工程といった様相がますます顕著で「最高学府」としての独立性は完全に過去のものに成り下がったのではないかと感じられます。今、学生の塾のバイトのような風情のコドモが教授、准教授として跋扈し、末期的様相です。自分の娘は縁はないでしょうが、東大京大なんてのも、今、進んだところで、私は何もすごいとは思えません。ただ心配するだけです。

父の他の主張と矛盾するようですが、この世に置かれた時間の尊さを深く認識するからこそ、魂の共感の分かち合いを求め、現代社会の常識的思考に抗う真っ当な意志の表明を、特に震災後の最晩年、父はブログの中で諸所に文章に込めていたと思います。亡くなって、私はようやく自分の父への無理解を突きつけられ、愕然としました。今は父の気持ちがわかります。

コドモ教授が学園に跋扈し出して、学問や教育よりも行政や制度いじりに躍起になっているありさまをさんざん見ているうちに、教授会も委員会も顔を出すのがほとほといやになりました。
彼らに文学論を吹っ掛け、素朴きわまる質問を発するのが、わたしの疎まれる原因でもあったでしょう。
いわく、あなたはシェイクスピアを研究しているそうだが、あなたにとってシェイクスピアは何者ですか。
いわく、あなたがニーチェの『悲劇の誕生』を座右の書であると言われるのを聞いたが、あなたにとってニーチェとは何者ですか。
彼らの回答は判を押したように画一的でした。かならず現在の研究動向の解説から始めようとします。こちらが個人的動機を尋ねているのに、相手は問いの意味を理解出来ないのです。
主体不在の研究を学問的客観性の堅持と錯覚して怪しまない。こういう教師の講義を聴かされる学生が、文学への感動も感銘も新たにし得ないのは理の当然でありましょう。
教えようという側に先ずもって感動が経験されていないかぎり、当該作品なり作者なりに対する好奇心や畏敬の念が涌き出てくるはずはありませんね。

ここまで書いたところで淳さんのメッセージの続きを拝見しました。
わたしが言う感動ないし感銘、あるいは畏敬の念もまた、魂の共感とその分かち合いのことにほかならないわけです。まさに先生の年来の主張でしたね。
真の理解は人間のかりそめの生と死を超越するもののようです。過去の偉大な先達が、その真理を繰り返しわれわれに教えています。

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2 Responses to 前回投稿(「もっと自由に!」)を受けて

  1. 中野 恵子 のコメント:

    淳さま
    モノデァロゴスをお続けくださり、本当にありがとうございます!折りに触れて拝見して、感慨を新たにしております。佐々木先生もさぞかしお喜びのことと存じます。美子お母様もお変わりなくお過ごしのことと思います。愛さんもご成長著しい事でしょう。気候の変わり目、皆さまつつがなくお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げております。

    • 富士貞房Jr. 富士貞房Jr. のコメント:

      中野恵子さま

      お便り、誠に有難うございます。メールで何度かご連絡を試みたのですが、設定の具合か叶わず、申し訳なく、また心配申し上げておりました。中野様はいかがお過ごしでいらしたでしょうか。わが家は幸いして、何とかやっております。父のメールアドレスがまだ機能しておりますので、こちらを通じて、おやり取りできれば幸甚に存じます。母は、先月より隣町の老健での3泊のショートステイを利用させてもらえるようになり、今日、二回目ということで、無事にわが家に帰ってまいりました。

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