『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』発刊のお知らせ


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『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』発刊のお知らせ への4件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     右に掲げられている本の中に『プログレッシブ スペイン語辞典』がありますが、先生が「性悪なやつ(2003年2月17日)」でこんなことを言われていたのを思い出しました。

     「かく言う私も一度辞書作りに参加したことがある。大先輩のT教授に引っ張り出されたのだが、今から考えるといい経験をさせていただいたと感謝している。辞書作りはズブの素人だが、私なりの信念はあった。簡単に言えば、辞典はたとえいかに小さくとも宇宙を反映すべきである、という信念。だから新しい辞書編纂術と時にぶつかることもあった。humano(人間にかかわる)とalma(魂)という二つの単語の扱いで、特に頻度数をめぐって一人の編集委員と対立した。会社側もT教授も私の主張を認めてくれたのに、初版ではこれら二つの単語は低いランクの単語になっていた。しかし新版になるときに再度の主張が通って赤字の最重要語(千語)に格上げされた。(中略)一つ一つの言葉が学問的(?)分析にかけられる以前にすでに一つの思想であり、それらを集めた辞典はしたがって自ずと小宇宙を形成する。」

     先生の見識の高さをこの文章で感じたので、この個所は良く覚えていました。『情熱の哲学』も来年初めのころに池袋の書店で購入しようと思っています。最近アマゾンを利用することが多いんですが、アマゾンでしか扱っていない本以外は書店で購入しています。その本が置かれている回りにどんな本があるのかも楽しいですし、外出することで気分転換を兼ねて書店に出かけることにしています。

  2. 佐々木あずさ のコメント:

    昨日から、風ひとつない穏やかなお天気です。南相馬のお正月は雪は多いのでしょうか。モノディアロゴスをゆっくり読み味わう大晦日を過ごしております。
    さて、『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』の発刊の知らせ、ありがとうございます。これは、何が何でも手に入れて「寄りあい処 呑空庵」の蔵書にしなければなりません!この理不尽で、不条理で、非倫理的で、愚思考の政治と世の中の、(あー、こんな単語でしか表現できないのが嘆かわしい)一条の光です。私に理解ができるかどうかわかりませんが、読書会で読み説いて理解を深めたいと思っているところです。先生、来年も、呑空庵主としてご指導いただけることを心よりお願いいたします。美子奥さまによろしくお伝えください。

  3. 阿部修義 のコメント:

     昨日、池袋のいつもの書店で『情熱の哲学』を購入しました。午後一時過ぎに人文関係の書籍群が集められた四階のフロアーの「スペイン」と書かれた書棚を見つけて、この本が、まだ、並べられていないことに気づき、近くにいた眼鏡をかけた女性の店員さんに、今日発売のはずですがと聞きましたら、その店員さんは、そのことを熟知していて、一階に届いていて、これから並べるところですがと言いつつ、すぐに一階から持って来てくれました。その対応の素早さに、この書店は品揃えだけでなく、店員さんのレベルも高いと思いました。先生と執行さんの「まえがき」と「あとがき」を一読し、目次を見て「ウナムーノと漱石」を何度か読み返しました。これから時間をかけて、じっくり読み込んでいこうと思っています。

  4. fuji-teivo fuji-teivo のコメント:

    昨夜(28日)届いた立野さんのメール、例によって例のごとく全文ご紹介します。

    佐々木先生、

    立野です。夜分失礼します。わたしの長大?なメールをそっくり談話室にご掲載いただいて恐縮しております。

    さて、きのうわたしの主宰する読書会が、新年一回目として開催されました。『情熱の哲学』をなるべくネットではなく、店頭で購入してほしいとみんなに伝えました。むろんすでに購入した人もおります。

    じつは念のため安倍さんに在庫のことを問い合わせてみたところ、販売促進の上からも相乗効果が望めるので、むしろ店頭で買い求めていただきたいということでした。もっともな話です。

    因みに、伊藤龍哉君はいま実家の大分市に帰省していますが、きのう市内の書店でたった今購入しましたと連絡がありました。やはり大手取次店の配本網は全国的です。どんどん売れて、短期間のうちに増刷されるといいですね。

    わたしはきょう最終章のウナムーノと漱石の章をじっくりと読ませていただきました。簡潔な論考ですが、いま読んでも考えさせずにはおかないものがありますね。存在の深淵を心にかかえたまま生きてきて、人生の終わりを予期して初めてその深い真実を告白せざるを得なかったウナムーノと漱石に、思いを馳せないわけにはまいりません。

    先生はこれを1976年に書かれた。いや、発表がその年ですから執筆されたのは75年ということになりましょうか。いずれにせよ、今回読みながら改めて気づかされたことがあります。それは、近代との格闘という主題こそが、若造だったわたしの関心を、今回の『情熱の哲学』の前身『ドン・キホーテの哲学』に向けさせた大きな理由だったということです。

    一つには佐々木先生とわたしの年齢差もあったと思いますが、ちょうど75、6年ごろというのは、わたしが二十代を終わろうとするころに当たっていました。

    近代との対決をわたしなりに試み、それまでにもいくつかのエッセイや論文を書いていました。ただ、ウナムーノを読んでいたにもかかわらず、わたしの主要な関心は、ウナムーノがさして高評価していると思われない思想家、ニーチェに向けられていました。

    先生がウナムーノと漱石の晩年の作品を取り上げられたのとは反対に、わたしの場合、ニーチェを取り上げるに当たって選んだのは、初期の問題作『悲劇の誕生』でした。

    これは、二十代を終わろうとする自分に課せられた宿題、または提出期限の迫った決算報告書のような意味を持っていました。

    つまり、まもなく三十代に突入するに当たり、それまでの自分の「青春」とどう決別するかがわたしの真剣な問題でした。それが人間存在の基底に関わる問題でもあることを、若いニーチェにならって「青春」というモティーフに密着させつつ考えようと企てたわけです。

    先生の論文の一節にこう書かれています。

    「彼の悲劇は、伝統的価値観の弱さや無力さ、かつての世界の欠落に気づいた男の、まさにそのために、世界に意味を与えねばならなくなった男の悲劇である。」

    「彼」とはウナムーノ、そして漱石です。しかしこれはニーチェでもあります。ニーチェが直面したかれの同時代の実相でもあります。ニーチェは古代文献学者として輝かしい未来を約束されながら、詩人的直観によって、自らの足下に無の奈落が広がっていることを察知しました。

    そして古代ギリシア人もまた、かれらの深い洞察力によって、人間存在に意味などないことを見抜いていたとニーチェは考えました。カルデロンの『人生は夢』に示された真理は、「人間の最大の罪は生まれ出たことにある」というものでしたが、同じ認識がすでにギリシアにもありました。ソフォクレスを始め悲劇詩人たちはその認識をいくたびも語って止みません。

    しかし、暗い認識が支配していながら、ギリシアはなぜあのような人類の憧れと理想ともいうべき壮大にして華麗な大文明を現出させることができたのか。

    ニーチェの天才が取り組んだのはその巨大な謎にほかなりませんでした。バーゼル大学を皮切りに将来を約束されたエリートの経歴をニーチェが擲ったのは、同時代のニヒリズムを脱却し超克する方途を全力を尽くして探求するためにほかなりませんでした。

    優秀な文献学者は変貌し、以後、問題を提起し物議をかもす危険な思想家となりました。

    翻って二十世紀後半、二十代のわたしの時代は、全共闘運動とその陰惨な末路の時代でした。反帝国主義を標榜した学生たちがはからずも露呈したのは、かれらの内部の「反近代」にほかなりません。

    わたしは終始ノンポリ学生だったのですが、そのわたしをも恥じ入らせる同世代の喜劇的実態暴露をまのあたりにして、自己建て直しの必要がわたしに痛感されたのです。

    シェイクスピアよりもむしろギリシア悲劇を耽読していた時分でしたから、『悲劇の誕生』を繰り返し読み、自分一個のためにそれをあますところなく論じずにはいられなくなりました。

    枚数にして250枚強、ちょうど新書一冊に匹敵する長さのニーチェ論を書き上げたのは、二十九歳の夏の終わりのころです。

    年齢的、学問的、思索的に、佐々木先生が一歩も二歩も先んじられていたのは、わたしからすれば是非もないことながら、それでもなんと言えばよいでしょうか、同じ問題圏の周縁部分を、わたしもたどたどしい歩みで一人進もうとしていたわけです。

    先生が引用されるように、人生は夢、とカルデロンは言いました。

    ニーチェもギリシア人が見たのは夢だったのだと言っています。ただ、その夢の壮大さ、仮構としての夢の見事さ、存在の無を洞察していながら、深淵を覆い隠してしまうほど途方もない想像力と創造力と活力を夢をつうじて示したのは、人類史上まさにギリシア人だけであり、そこに近代西欧が自らの深淵を乗り越える偉大なモデルがある、とニーチェは考えたわけです。

    翻ってわが目前のこととしては政治の季節の過ぎ去ったあとの索漠とした現状、長期的には日本近代の夢の泡沫化としての側面、つまり民主主義や教育の虚妄であることの露呈などが、わたし一個の内面をも浸食しつつあると感じられたことの危機感から、ニーチェ論を書く動機も生じてきたにちがいないと思います。

    ご著書の全編をまだ最後まで通読しているわけではありませんが、記憶に懐かしいくだりや章句を目にして、ここには西欧近代からは取り残されたイベリア半島の「辺境」のまなざしが、極東日本の辺境性との比較と対照のうちに見きわめられようとしている、ということを再確認しつつある次第です.

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