去来する様々なことども


 以下に書くことは、(おそらく)、現在準備中の『モノディアロゴス 第14巻 真の対話を求めて』の「あとがき」になるであろう雑念の塊である。我が愛しのブログはすべて「ごった煮」の「どんぶり勘定」なので「ゆるしてたもれ」※。とにかく歳のせいか(いやいや生まれつきでしょう)いよいよせっかちになってきた。刹那的に、かっこよく言えば、ホラチウスの「この日をつかめ(Calpe diem!)」の精神で生きております、はい。

 これまで年に2巻は作ってきた「モノディアロゴス」がここに来て少しペースを落とし始めた。ネットでの発言自体、このところ週一、下手をすると何にも書かない週があるから当然の話なのだが。そして量より質とも言い切れないことがちょっと情けない。でも第14巻の編集そのものは六月には終わっていたと思う(記憶がはっきりしないが)。そして解説を立野さんにお願いした。しかし彼の海外旅行や私の側での都合などが重なって作業が少し停滞していたところ、それまで考えてもいなかった新たな状況が生まれたので、急遽、立野さんに解説そのものを新しい状況に合わせて書いていただけないか、と持ち掛け、快諾(とは言えないか、強引なお願いだから)を得たところである。

 新たな状況とは、「モノディアロゴス」などを含めたスペイン語訳作品集の出版を進めていた過程で、以前、『原発禍を生きる』の出版元の論創社に第二弾出版の話を持ち掛けてそのままになっていたことを思い出した。つまりこの際、それ以後に書かれたものから選りすぐって(?)一冊にまとめること、その編集・解説のすべてを立野さんに丸投げすることにしたのである。

 かくして第14巻の「あとがき」は私自身が書くことになった。しかし例のスぺイン語訳出版のかなりの難渋、そして生きている以上次々と出来する雑事、その一つは柄にもなく(?)賃貸にしていた桜上水のワンルーム・マンションの売却にまつわる交渉(連日のようにかかってくる慇懃無礼な不動産屋からの電話※※にウンザリしてとうとう売る気になった)、などなどで、「あとがき」執筆はどんどん先き延ばしにされてきた。しかしカタルーニャ問題の最中でありながら、マドリードのガージョさんの口利きで作品集出版の可能性が少し出てきたり、売却については談話室でおなじみの上出さんのお力添えで、これまた動き始めたので、ようやく「あとがき」を書く気になってきたのだ。

 ところでついでだから言ってしまうが、その間面白いこともいくつかあった。一つだけご披露しよう。それはまたもやの映画出演である。と言っても前回の『日本でいちばん長い日』同様、我が幼少期の写真による出演である。今回もその映画の助監督さんがたまたま我がホームページの家族アルバムを見たのがきっかけである。その映画とは近浦啓監督、中国の国際派俳優ルー・ユーライ、 藤竜也主演の中国人不法滞在者の苦悩を描く日中合作映画『CHENG LIANG(チェン・リャン)』である。つまり私は藤竜也の幼児期を演じる(?)のだろうか。写真登場の場面は既にこの八月に山形で撮影済みで、封切りは来秋らしいのでお楽しみに。

 もう一つついでに。あんなこんなで結構あわただしい日を送っているが、たまに見るテレビではメジャーリーグの今期最後の試合をやっている。しかしこちらが歳を取ったからであろうか(いやいやそれは関係ない)、選手だけじゃなく監督までも試合中汚い唾、中には噛みタバコのドス茶色い唾、を所かまわず吐き散らすのを見ると、本当にやつら汚ねーって思う。時々映るダッグアウトの床の汚さったらない! ありゃ文化の違いなんてもんじゃなくて人間性の違いだっせ。前田よ、ダルビッシュよ、マー君よ、やつらの真似なんかするなよ。そんな場面を見ると観戦する気にもなれなくて、すぐスウィッチを切ってしまう。あゝほんとババッチイこと!

 最後はとても真面目な、しかも悲しいお話。三日ほど前、『平和菌の歌』の作曲家というより我が舎弟のピアニスト菅さんから電話がかかってきて、一度川口さん菅さんと一緒に南相馬市中央図書館で行われたチャリティー・コンサートで端麗なフルートの演奏を聞かせてくださった浦崎玲子さんが闘病の末、先日亡くなられたという。東京純心で事務員をなさっていたころからいつもにこやかで、すでに亡くなられた長尾覚さんともども、あまりいい思い出のない純心でオアシスのような存在だった。亡くなられる直前まで、また菅さんと南相馬で演奏したいとおっしゃっていたそうだ。かわいらしいお子さん(たち)の母親でもあった彼女の突然の死で深く悲しんでいる菅さんに昨夜こんなメールを送った。

「最近ばっぱさんのことを思い出すことが多いのですが、その際思うのは、死者のために祈るとは、はるか遠く天国にいる霊魂のために祈ることではなく、いま地上に生きている私たちのすぐ傍らに彼または彼女が今もなお生きていることを信じることだと思います。」

※「ゆるしてたもれ」この言葉は武蔵を三年間待っていたお通が、武蔵の後を追おうと旅の準備をしているときに花田橋の手摺りに武蔵が書き記して去っていった時のもの。関係ないか。
※※ 留守電に残っている電話番号をネットの検索にかけるとそれが迷惑電話の不動産屋であることがたちどころに分かる。便利(?)な世の中じゃ。

★ 急いでの追記 書き終わってから、一つとても嬉しいことをお知らせするのを忘れていた。それは長らく絶版になっていた拙著『ドン・キホーテの哲学 ウナムーノの思想と生涯』(講談社現代新書)が、この度、執行草舟さんの監修で、他に三つほどの論考を加えて法政大学出版局から復刊されることになったことである。その三つの論考のうちの一つは、むかしサラマンカ大学のウナムーノ研究誌に発表したものを学芸員の安倍三崎さんが翻訳して掲載される。執行さんの「復刊後記」を安倍さんが密かに読ませてくださったが、著者に対する最大級の賛辞が書かれており、そんな褒め言葉などいただいたことが無かったので、眼が思わず踊ってしまったほどである。その時が来たら皆様にもご紹介したい。この復刊は、来年創立八百年を迎えるサラマンカ大学と在日スペイン大使館、それに執行さんの戸嶋靖昌記念館の共同イベントの一環としてであり、長らくスペイン思想を学んできた私にとって思ってもみなかった幸運である。草舟さんをはじめ関係諸氏に深く感謝したい。

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呑空庵増殖中


 この数日間で呑空庵が六つに増えました。まだまだ増加すると思います。小金井と麹町が名乗りを上げてくれたので、第二支部の東京支部は代々木支部にしましょう。つまり増殖と細胞分裂の同時進行です。もちろん立野先生の高津支部が、ドンキー・ハット(ドン・キホーテの小屋)という愛称を持っているように、それぞれ自由に愛称・通称を考えて下さることも歓迎します。
 パチンコ店や安売りのチェーン店の掛け声よろしく、「目標100支部!」としましょうか。となると細胞分裂で最後は個人名の支部誕生となりますが、そのような成り行きも大歓迎です。
 ドン・キホーテの第三の出立は、衆院選挙の結果がどう出ようと、政権がどう交代しようと、そんなことにいっさい動じず、すべての核の廃絶と恒久平和目指して長征の旅に出まーす。どうぞ皆さーん、一緒に行進してくださーい!
 

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反核と風車の冒険


 私としては昨日から、いや今日からかな、とても大事なことを考慮中で、本当はその方を先にすべきだが、でも長年関わってきたスペインの不安定な政情について今考えられることをまず簡単に記録しておきたい。

 実はカタルーニャの独立問題を今まで特に考えたことも、そのための情報を集めたこともない。したがってこれから書くことが的外れである可能性は大いにある。しかし大筋では間違っていないはずだ。

 遠いスペインの問題、実は現にいま日本がぶつかっていることと無縁ではない。具体的に言うと、希望の党(或る人は小池女史のことを希望ではなく野望の人と形容したが、けだしその通りであろう)は永住外国人の地方参政権を認めないことを公認の条件にしているそうだ。排他主義が露骨に表れており、彼女の言う聞きなれない英語、ダイヴァーシティ(diversity=多様性)ですか(なんでここで英語使うんだよ)とは真逆の思想を臆面もなくさらけ出している。こういうのを日本語では羊頭狗肉もしくは恥知らずと言う。

 それがカタルーニャ問題とどう関係するか。今回の騒動に関するカタルーニャの主張には、中央政府の画一主義、とりわけ自分たちの豊かな経済力がアンダルシ-アのような怠け者たちの貧しい洲(グラナダのマルドナード神父さん、すみません!)に横取りされていることへの不満が底流しているようだ。でも万が一、独立を成功させたとしても、その国家像が従来のものと何の変りもないものだとしたら、これからも増え続ける(イギリスも同様の問題を抱えている)群小国家群の間の小競り合いが増える一方で、たとえ経済的に少しは良くなっても、ストレスと不満がたまり続ける世界になってしまうのではないか。

 簡単に言えば、近代国家という枠組み・構造それ自体が金属疲労を起こしているのが誰の目にも明らかなはずなのに、そこから敢えて目を逸らし続けているのが現代なのだ。今も絶えることのない紛争や戦争は、私の考えではそうした金属疲労の近代国家像にこだわり、しがみついていることから生じているとしか思えない。

 では具体的には、と言われると返事に窮するが、しかし敢えて乱暴に言い切ってしまえば、近代国家の構造そのものを緩やかに解体してゆくこと。その意味ではEUは勇気ある試みであったはずが、ここにきて少しバタバタしているのが残念である。でも方向性としては間違っていない。

 カタルーニャ問題に話を戻すと、画一的・強権的な中央政府も態度を改め、各州の自治権をさらに認める方向、つまり「Viva,España! スペイン万歳!」はオリンピックなどで叫ぶ以外、旧来の国家主義から徐々に脱皮してゆく道を探ってほしい。今日の新聞ではスペイン国王が悲壮な表情でカタルーニャ州政府首脳を非難し、国民の結束を叫んでいるようだが、ことここに至ってはむしろ柔軟な呼びかけをした方がよかったのでは、と思う。 

 でもどちらにしても他国のこと、いまはむしろ日本の方がもっと心配だ。つまり先の永住外国人への地方参政権拒否など、前述のような狭隘な近代国家像から一歩も抜け出していないことは明瞭だ。安倍政権の国粋的国家主義とほとんど変わらぬ政治理念だ。伝え聞くところによると、脱原発というスローガンもかつての師(でしたか?)小泉元首相の意向が反映しているのに、彼を含めて首相・閣僚経験者を排除するという、これまたダイヴァーシティ(でしたっけ?)とは真逆の姿勢。とにかくケ〇〇ドの小さな集団としか言いようがない。

 ええい、ついでだ。もう一つの問題にも触れておこう。話はややこしくなるが、発端はこの数日の間に、十勝に続いて仙台と東京に「呑空庵支部」が誕生したことだ。支部と言っても何の制約もノルマもなく、本部(?)からの注文はただ一つ、「今日から私は○○支部です」とつぶやくだけ。もし近くに人がいたら心の中でつぶやくことで認証式終了というシンプルさ(お粗末という勿れ)。

 ところでその呑空庵だが、すでにご存じのようにこれはD・Q、つまりドン・キホーテの庵(いおり)の意味だ。もうだいぶ前から老夫婦の住む旧棟(新棟とは一階も二階も内部で繋がっている)の玄関口に古ぼけた竹製の表札(もしかして前身は踏み竹でなかったんかい?)にその名が下手くそな字で書かれている。(ついさっき、「富士貞房と猫たちの部屋」の「家族アルバム」の最後にその写真を掲載したのでご覧あれ)

 つまり呑空庵とは老夫婦の家でもあり私家本の発行元でもあるのだが、いまや2200冊になった豆本の奥付にもその名が印刷されている。しかし実はこれまで呑空庵の呑空の意味を真剣に考えてこなかった。つまりただの洒落だったわけだ。ところが今回、三つに支部が増えた段階で初めてドン・キホーテと反核(そして反戦)の関係を考え始めた。十六世紀日本で生まれたケセラン・パセランを平和菌と命名したのは我ながらお見事と自負しているが(誰も褒めてくれないので)、ドン・キホーテと反核の関係も突如天啓のように頭蓋の中で閃いたのだ。ウナムーノがドン・キホーテ論で夙に喝破していたように、あの有名な風車の冒険は、実はそのころから現代にまで続く科学という「巨人」の物神化・崇敬に対する彼の果敢な挑戦だったのだ。つまり当時、オランダから移入された風車は当代きっての最新鋭動力だったわけで、人々はそれまでちんたらちんたら小川の水を動力源としてきたのに、いまクリプターナの高原を吹き渡る風を受けてブンブンうなりながら回転する三、四十基の風車群に度肝をぬかれたわけだ。

 風車めがけて突進し、空中高く放り投げられた主人にサンチョは言う。「だから言わねえことでねえ! おめえさま、言いましたべ、とんちんかんなことしなさってるだと、あれは風車にちげえねえと? わかりそうなものだ。それともおつむの中でこんな風車がぐるぐるまわってるだかね?」(岡村一訳)

 巨人じゃなくただの風車だ、と言うが、しかしこの言葉自体の中に当時の人々のおつむの中にあった科学に対する強い畏怖の念というか信仰が透けて見えるのだ。つまりあれは風車ではないと言い切れるのは、サンチョの頭の中にすでに物神化された科学という化け物が巣食っているのに、本人はそのことを自覚してないことを示している。だがドン・キホーテは、目の前に見える風車にその化け物が潜んでいると信じたわけだ。

 当時最高最大の動力源が風だとしたら、現代のそれは? 間違いなく核である。つまりクリプターナの平原に屹立する風車群は、例えば我が福島県の美しき海岸線にその威容(異様!)な巨体を並べる原子力発電所である。現代のドン・キホーテの末裔が直接発電所を襲うのではなく(それはもちろんしてはいけない)しかしその廃絶を目指し、力の限り戦い抜くことは当然ではなかろうか。

 福島第一原発事故の究明も終わらぬうちに、本日数時間前、 原子力規制委員会は東京電力が再稼働を目指す新潟県の柏崎刈羽原発の6号機と7 号機の安全審査で合格点を出したという飛んでもないニュースが流れた。こうなればいよいよ真剣に、執拗に、そして持続的に、原発廃絶を目指して頑張らなければ、と決意を新たにしたところである。

 どうかこれをお読みの皆さん、宣言も掲示も登録も必要ありませんから、各自それぞれ心の中で「今日から私、呑空庵○○支部」とつぶやいてください。どこにも届け出る必要はありませんが、お気が向いたときにでも、談話室なり、あるいは佐々木へのメールで支部発足を教えてくだされば嬉しいです。十勝、仙台、東京の支部の皆さんもさらに力づけられますので、どうぞよろしく。

 私も今日からドン・キホーテと反核についての以上のようなメッセージを解説に加えて豆本作りに精を出すつもりです。

※ 翌朝の追記
 今朝制作のものから、例の豆本の解説に以下の文章を加えることにした。
 「そして平和菌誕生と同じころ、スペインでは文豪セルバンテスがドン・キホーテを世に送り出した。この憂い顔の騎士は平原に屹立する風車に向かって果敢に立ち向かったが、それはオランダ由来の、当時の科学技術の最先端をゆく風車の中に、以後現在まで人間社会を骨がらみに冒してきた物神化された科学、つまり巨人を認めたからである。
 サンチョもそして私たちも「あれは巨人ではなくただの風車だ」と彼を物笑いの種にするが、しかしそう言い切ること自体、物神化されたバケモノ(科学技術の盲信)が私たちの精神深くに棲みついていることを逆に証明している。
 十六世紀スペインの風車は、現代ではこの火山列島のいたるところにその威容(異様)を誇ってきた原子力発電所である。
 私たちは原子力の平和利用という美名に騙されてきたが、その廃棄物は何十万年ものあいだ毒性が消えないまま地中に埋められ、次世代にとてつもない負の遺産を残していく。
 したがって平和菌の拡散は、原発そしてそれと同根の核兵器の廃絶、究極的には世界平和の構築へと向かう静かで確実な挑戦であり、本書の発行元「呑空庵」の名はドン・キホーテ(DQ=呑空)の前線基地を意味している。」

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我が教育学原論


 なんだろ、この頃の政界見てらねんねぇね。小池のおばちゃんの登場でぐだぐだになってきた。アホらしくてニュースを追う気にもなんねぇ。とってつけたような脱原発の旗印も自民党顔負けのチョー保守志向の中で霞んでしまって、本気かどうかさえわかんねくなってきた。もともと彼女、憲法改正、安保法制賛成だけでなく原発再稼働賛成だったはず。日本全体が大きく右旋回してきた。それでなくとも腰の据わらぬリベラル派が踏み絵もどきを踏まされて根絶やしにされそうだ。
 そんな時、たまたま『大学の中で考えたこと』という私家本を見ていたら、30年ほど前、静岡にいたときに書いたちょっと面白いのが見つかったので、気分転換にでもどうぞ。我が政治学原論にも通じる教育学原論である。

★ 病後のたわごと ――架空インタビュー―

 「のっけからナンですが、なぜ架空インタビューという形式を?」 
 「いや、べつだん深い理由があるわけじゃない。ただこの原稿の締切が明日というときになって、ここ十数年来かかったことがないような流感にやられて二日間寝っぱなしだったもんでね。それでちょっとまともな文章を作る気力も集中力もなくて。一日目などは眼が覚めたら八時、てっきりアシタになったと思ってね、それにしてはずいぶん外が暗いな、って言ったら家人に、なにブリッ子してるの、まだキョウよ、って言われてね」
 「カッワイーッ」        
「よしてくれよ。でもほんとに可愛いと思う? まさかね。でもね、この《可愛い》と いう言葉の使い方は、そうだなここ七、八年来のものだな。タモリの『笑っていいとも』 のスタジオに集まった女の子たちよろしく、なんでも《カッワイーッ》だもんな」 
「いいじゃないですか。要するに先生がそれだけ年をとったということですよ。若いもんのフィーリングについていけない……」
 「そんな意味でなら、ついていく気はさらさらないね。ともかくだね、日本中がブリッ子になってきたってこと。まだほんの青二才のときからオジン、オバンと言われまいとしてみんな汲々としているじゃないか。このあいだも『ナウ・ゲット・ア・チャンス』とかいうテレビ番組を見ていたら……」
「どうでもいいですが、ずいぶんつまらない番組を見てますね」
「ン……幼稚園の保母さんたちの大会でね、見ているうちゾーっとしてきたね」
「若さムンムンで?」
「よしてくれよ、あんな保母さんたちにゃ金輪際子供なんか預けたくないね。まるで餓鬼のまんま」
「だって子供好きで子供と一緒に遊ばなきゃならないんだから当然じゃないですか。あれでけっこう大変なんですよ、保母さんの仕事」
「それは分かるよ。でもね、そこにはまったく落差が感じられない」
「…? 何です、そのラクサとか言うもの?」
「つまりだね、子供に近付くのはいい、しかし、いい大人が子供の世界に入るにはそれだけの精神的負荷の一瞬の放下というか、つまりだね、もっと分かりやすく言うと、餓鬼が餓鬼に近付いても面白くも可笑しくもないということだよ。つまり、子供は子供になれない、なぜならもともと子供なんだから。いまさらキリストや良寛和尚を引き合いに出すまでもなく、子供になる、子供の背丈で物を見るというのは実は至難の技なんだよ」 
「そうかも知れませんが、でも面白可笑しいで教育は済まないと思いますけど……」
「そうかね、ひょっとすると教育にとっていちばん大切なものかも知れないよ。いや少なくとも今の教育にいちばん欠けているものとは言えるね。すべてが前もって決められた枠から豪も出ようとはしない。教育とはそれこそ未知のものとの遭遇であり冒険であり、知的食欲をそそる旅への誘いであるはずなのに、今じゃただ食べたくもないのに無理矢理消化しなければならぬメニューとして重くのしかかっているだけだ」
「先生、そうは言っても現場じゃいろいろと大変なんじゃないですか? 先生は比較的自由な大学の先生だからそう言えるかも知れないけれど…::」
「なるほど、今の受験戦争の中じゃ、学ぶ喜び、教える楽しさなんていうのは、それこそ理想論にすぎない、もっと現実的に、というわけなんだろう?」
「ま、そういうことですね。現実はどうしようもなく学歴社会なんだし、競争原理で動いている社会なんですから……」
「しかしね君、その現実というのは何だい?」
「そう面と向かって言われても……」
「いや、べつだん君とここで哲学論議をしようなんて思っていないよ。ただね、君の言い方だと、現実というものはすでにそこにあるもの、ということになるけど、それは人間的現実のほんの一部、というかその物的部分にすぎないということさ。人はパンのみにて生きるにあらず、むしろより多く夢を食べて生きているのさ。たとえばね、この世はすべて金さ、学歴さ、と言っている連中だって、実はそういう夢を見ているに過ぎないのよ」
 「要するに、ものは考えよう、ということですか?  それはちょっとおかしいですよ。だって制度なり社会といったって所詮人間が作ったものなんだから」
「だろう? それじゃあどうする? 制度を変えるか、それとも社会改革を目指すかい?言うは易く、行なうは難し、だよ。それに先ほどのような物の見方だったら、いくら制度を変えてもあんまり意味がないよ。つまりね、人間的現実の物的な部分にしばられている限りいくら制度を変えても意味がないということ」
「……つまり発想の転換がない限り?」
「そういうこと。たとえば最近問題になっている《いじめ》は、結局は現在の学校的環境を支配している画一主義や管理主義に繋がっているが、それだって親や教師のあいだに、発想の転換がない限り問題は解決しないさ。この間題で槍玉に上がっている先生たちは実に心外だろうね。だって自分たちは学校の評判と威信のため、それこそ一身を捧げて来たんだからね」
「およそ的はずれの滅私奉公?」
「そう。だいいち気色悪い図柄だね、いい年した男が(あるいは女が)女生徒のスカートは膝下何センチでなければならないとか、前髪は眉の上何センチでなければならないなんてしょっちゅう眼を光らせているなんて光景は。僕にも高一の娘がいるけど、そんなことコッパズカシクテ見たことないよ」
「何です、そのコッパなんとかというの?」
「東北の方言で、とても恥ずかしくて、という意味。それはともかく、僕がいいたいのは規則を無視しろということとは全然違うんだな」
「規則は理にかなったもの、それも必要最小限に、でしょう?」
「よく分かったね」
「あたり前でしょ、先生が僕をしゃべらせているんですから。あっ、分かった、インタビューの形式をとったわけが……」
「そう言わないでもう少し付き合えよ」
「それじゃ先生にとってずばり学校教育とは何か?と聞いてもらいたいんでしょ?」 
「しごく簡単明瞭さ。要するに学校教育とは、人間形成にとって比較的有効な一手段であって、それ以上でもなければそれ以下でもない、ということ。ついでに言わせてもらえば、学問とは、結局は人間の蓄積された知恵とも言うべき常識あるいは共通感覚に戻るにしても、絶えずそれを疑い批判していく作業であり、物事を外面からではなくそれの生成状態において見ること。つまり現在の教育の荒廃は、実に逆説的だが、学校教育の物神化にある。 
 確かに学校教育に対して昨今異常とも言える批判が集中しているが、しかしその学校教育そのものがそれほど自明的に、あるいは絶対的に必要なものなのか、といった問題提起は一度もされてこなかった。昔なら日本のそこかしこに住んでいた古老というか知恵の人がつぶやく次のような言葉、どんな偉い教育学者も顔色なしとする次のような言葉、つまり《学校? 行きたけりゃ行くがええ。いい友達が見付かっかも分かんねぇしな。だけどな、爺っちゃんらは学校さ行かねども物事の道理を違えたことなどねぇ》といったなどは、今では小説か映画の中でしか聞けなくなってしまった。だからね」 
「なんですか、論文口調になったり話し言葉になったり」
「今日もとつぜん教育機器の会社だか予備校からだか電話がかかってきてね。あっお父さまですか、お宅に◎◎君いますね、どうですか元気に勉強してますかね、とやけに馴れ馴れしくずうずうしいんだよな。要するに受験とか学校という名を出せばだれでも平身低頭すると思ってるんだな、お前にカンケイねえよ、ってすぐ電話を切ったがね」
「先生ガラが悪いな。恥ずかしいなこんな先生持って」
「受験受験で尻引っぱたかれて来たはずの君たちが、いざ大学に来るとまったく勉強しないんだもんな。どうなってるのこれ。なまけ者のこの僕だって毎晩三時すぎまで勉強してんのよ」
「どうも雲行き悪くなってきたな。ここらで退散しましょ。先生ほんとに風邪引いてたの? それともまだ熱あるんでねぇかい?」

          一九八?年   「常葉大きゃんぱす」第?号

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貧者の一万円


 今朝の便でアマゾンンからジョセフ・ラブ著『教えるヒント学ぶヒント』(新潮選書、1983年4刷)の古書が届いた。著者は1992年に62歳の若さ(今の私からすれば本当にそう思う)で亡くなったイエズス会神父・教授・美術家である。美術家などとあいまいな言葉を使ったが、優れた美術論を書くだけでなく、ご自身が優れた画家(木版画・墨絵)・写真家でもあったからだ。さっそく布表紙の美本に仕上げる。

 先日なぜ彼のことを思い出したか、というと、徒然なる物思いの切れ間に「貧者の一灯」という言葉が突然頭に浮かんだからだ。もちろんその意味は「長者の万灯より」貧しい人の心のこもった一灯の方に価値がある、という意味だが、これをもじって別の格言を作ってみよう(このごろ物覚えが悪くなったのを補完しようとしてか、よくそういう遊びをする、特に昭和歌謡曲の陳腐な決まり文句を揶揄しながら)。そうだ「(長者の百万円より)貧者の一万円」では? 貧者が与える方ではなくもらう側と逆にはなるが。そしてその時思い出したわけだ、有難ーい一万円のことを。

 話はずいぶん昔に遡るが、ラブさんとは私がまだイエズス会にいたときから親しく付き合い、私が退会した後も、大半の友人とはそれ以来疎遠になったが、彼は一切変わりなく付き合ってくれ、ある時は南相馬の家まで訪ねてきた。その時、近くの酒屋で夕食の時に飲む美味しいカクテルの材料など仕入れてくれたが、さて何というカクテルだったか。近くの浜で海水パンツ姿の彼がふざけてボディービルダー風のポーズをとった写真が残っているから、季節は夏だったはず。日記を調べれば分かるが、確か私は新婚ほやほやの時代だったと思う。

 それからほどなくして私たち夫婦が双子の赤ちゃんをそれぞれ一人ずつ抱いて上京し、南武線稲田堤で貧乏生活を始めて間もなくのある夏休み、家じゅう探しても一銭も現金が無く、それで思い余って勤め先の清泉女子大の会計課に金を借りに行ったことがある。確か互助会だったかの申し込み用紙の目的欄には家具購入などの項目はあるが生活費などという項目は見当たらず、でもウソを書く気にもなれず生活費に充当と書いたところ、そんな項目はありませんので貸せませんと言われ、なんのための互助よ、と捨て台詞を吐いて会計課を飛び出て、帰途サラ金から金を借りたころのことである。何かの用事で上智大学に行ったとき、門のところで偶然にラブさんに会った。すると彼は別れ際、そっと手に万札を一枚握らせてくれたのだ。生活苦のことなど一言も話さなかったのに、彼はそれとなく分かったのではないか。

 どことなく上品なヒッピー(あゝこれも今や死語か)風の芸術家にも見える神父さんで、お堅い神父さんたちとの生活は、時には苦しいこともあったとは思うが、しかし彼は実に自由に、そして周囲を明るくする人であった。困窮する私にさりげなくお金を握らせるなど、普通の人にはなかなかできるものではない。名前通り愛の人だった。そういう彼であったから、詩人の谷川俊太郎さんや詩人・美術評論家の大岡信さんなどたくさんの芸術家たちと親交があった。

 しかし私たちが静岡に越してからは彼との付き合いが途絶えたばかりでなく、やがて難病に罹り、最後は車椅子の生活になったことを風の噂で知った。彼とあれほどまで親しく付き合ったのに、最後あたりなぜ病牀を見舞わなかったのか、今になって深く後悔している。今朝届いた『教えるヒント学ぶヒント』も、ネットで彼のギャラリ-探索の時に偶然知った情報である。なぜ手に入れることもなく今日に至ってしまったのか、今となってはただただ忘却の底に沈んでいて確かめようがない。しかし彼の唯一の絵本『夜を泳ぐ』(リブロポート、1991年)が二階廊下の本棚にあったことを思い出し、急いで持ってきた。静岡県雲見の里の少年の一種の夢想譚が彼自身の描く11葉の色彩画で語られている52ページほどの本である。つまり彼の死の一年前に出版されたものだ。しかしこれは彼から贈られたのだろうか。その記憶はない。本の最後あたりに封筒に入った6枚ほどの、彼の絵が印刷された絵はがきが挟まっていた。封筒裏に印刷された差出人の名はラブ神父だが住所は稲城市のものになっている。彼が急性肺炎で亡くなった多摩市の病院近くの住所らしい。するとこれは最後の日々、彼を献身的に介護した(と聞いたことのある)その絵本の訳者K・Mさんの住所ではないか。

 実は今さっき、そこに記されていた番号に思い切って電話をかけてみたのだが、「現在使われておりません」と機械音の答えが返ってきて、内心ほっとした。もしご本人が出てきたら、なんて無礼を詫びていいか言葉に詰まったであろうからだ。

 ところどころ記憶が消えて黒い穴が広がる過去。だが強いてその穴を埋めようとはせず、しかし蘇った過去の砕片を大事にそっと静かに眺めることで満足しよう。

 でもラブさん、あなたにもう一度会いたかった。あの時のカクテルを飲みながら、あなたが心から愛した日本の美術や…いや震災を経たにも関わらず、いよいよおかしくなってきた日本、そして貧者の一灯どころか誰もが長者になりたがり、利便追求に己れを失っている日本について話し合いたかった。

 でもそれがかなわぬ今、残された日々、あなたの遺書二冊を読みながら、そしてネットでも観ることのできるあなたのギャラリーを訪ねながら、これまでの空白を埋めるべく、あなたとゆっくり話し合っていきたい、どうぞよろしく。

※ すぐ後の追記
『夜を泳ぐ』がなぜ手元にあったのか、いまやっとわかった。2002年九月十六日のモノディアロゴス(行路社版に収録)にこう書いていた、長いがそのままコピーする。げに記憶とは不確かなものよ。

 生まれつき貧乏性なのか、昨年秋から始めたインターネットも、時間の経過とともに料金が加算されるというタクシー乗車賃のようなシステムにどうしても馴染めず、ドキドキしながらネットの海の水際でポチャポチャ遊んでいた。ところがこの三月の相馬移転と同時にADSLという有難いものを使い始めて、ようやく料金加算システムの魔手から逃れ、水際から少し先まで泳ぐようになった。おかげで、この数ヶ月のあいだ、たくさんの新しい友だちができたし、思いもよらぬ出会いや発見が続いた。そのうちの一つに、山梨・秋山工房のミチルさんを介して故ジョゼフ・ラブ神父との劇的な再会があった。彼女からいただいたラブさんの『夜を泳ぐ』(一九九一年、リブロポート)がその時以来机の上に乗っている。静岡県伊豆松崎の雲見という漁村に住む平太郎少年の一夜の海中冒険を美しい水彩画と散文で綴った不思議な絵本である。
 本と一緒にミチルさんがくれたラブさんの絵はがき数枚の中に裸の少年を描いたデッサン画がある。平太郎のモデルになった少年ではないかと思われる。思春期前期の少年の裸が実になまめかしい。膝から上の裸像だから当然性器が描かれているが、なまめかしさは単にそこから来るのではない。おそらくそれは少年を通して日本文化や日本人に対するラブさんの深い愛情が滲み出たものだと思う。関心のある方はラブさんの実作品などが展示されているネット・ギャラリーがあるので訪ねていただきたい(http://www.ne.jp/asahi/love/art/love/jlove.html)。
 そして先日とつぜん、ラブさんとの古い約束を思い出したのだ。急いで引っ越し荷物を探し回り、ようやく二冊の本と訳稿一束を見つけた。著者は両方ともD.ベリガン、そして訳稿はそのうちの一冊を私が訳したものである。D.ベリガンはラブさんと同じくアメリカのイエズス会士であり、徴兵カードを燃やした廉で逮捕されるなど反戦運動家としても有名な詩人である。彼の『ケイトンズヴィル事件の九人』は有吉佐和子訳で出版されている(新潮社)。訳稿のある方は九編からなる一種の現代教会批判論であり、ラブさんが強く共鳴して私に翻訳を勧めたものだ。なぜ手許にそのまま残っているのか。原書の出版社マクミランと日本のカトリック出版社との折り合いがつかないことに嫌気がさして篋底にしまい込んでしまったのだ。ラブさんのためにもこれをなんとか生かす道を考えなければ。
 

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