複合汚染


 以下にご紹介するのは、清泉時代の教え子、仁平美弥子さんからの私信であるが、読み終わって教えられるところ甚大であった、いや大きなショックを受けたと言っていい。私のコメントは後からのこととして、まずは全文を読んでいただきたい。実名でご紹介するについてはご本人からの了解を得てのことであり、感謝したい。

「佐々木先生
 桜の頃もはや過ぎて、今年の新緑の季節の到来が早く、温かすぎる春です。奥様の術後、自宅療養も順調の様子で何よりです。先生が担われる介護のお仕事もさらに大変になっていると思いますし、先生の皮膚炎が良くなっていない様子が心配で、お節介とは思いましたが、この手紙を書いてます。

 以前にもお話ししたかも知れませんが、私は冬場の乾燥による手荒れから主婦湿疹がひどくなったことがあります。老人性の乾燥膚なので、もう治らないと言われ、その痒みに耐えられず、皮膚科を転々とし、ステロイドを多用し、弱いものが効かなくなると一段階強いものを処方され、遂にはステロイド依存によるアトピー性皮膚炎になってしまいました。このままだと破綻するしかなく、夏場でも手袋をして外出するなど、両手はもうボロボロでした。

 いろいろなものを試し、最後に辿り着いたのは「ノンアトピー友の会」でした。そこでステロイド剤(人工の副腎皮質ホルモン)の怖ろしさを知り、また私たちの周囲にある化学物質についても、それらがいかに人体に悪影響を及ぼすかを学びました。食器用洗剤、洗濯用洗剤、シャンプー、浴用石鹸その他の石鹸類にも、汚れを簡単に落とす為に界面活性剤が使われており、これらは環境(下水など)を汚染、破壊するだけでなく、皮膚にもとても良くないことを知り、全て自然由来のものに切り換えました。 

 ステロイドを完全に止めた後はしばらくリバウンドがあり、一時的に炎症がひどくなりますが、次第に落ち着いて、現在は両手とも完全に治癒しました。この経験を通して薬の恐ろしさを身に沁みて理解しました。どの薬剤も症状や炎症を一時的に抑える為の対症療法でしかないこと、根本的な治癒は薬ではできないし、薬を使い続けることは、内臓にも身体にも負担をかけ続けるものであること。

 先生の皮膚炎の処方薬は、おそらく飲み薬は抗ヒスタミン剤ではないでしょうか。それらより、もちろんシアバターの方がずっとましです。私が使っている石けんと酵母くん(ビニールの袋に入っている)はノンアトピー友の会の製品で、今でも私が使っているものですので安心して試してみて下さい(洗顔などに)。それからミヨシ(MIYOSHI)の石けん類とシャボン玉浴用石けんは市販のものですが、無添加製品で膚への刺激が無く良品ですので、私も使ってます。

 主人は脳梗塞になってから、やむなく血液サラサラ薬を服用しています。しかしコレステロールの薬や糖尿病の薬は服用せずに食事の改善に努めています。医者は安易に薬を処方しますが、薬はたし算ではなくかけ算として考え、身体への負担をかけない様に心がけています。

 60年前にレイチェル・カーソンが『沈黙の春』で化学製品による自然破壊と発病について警鐘を鳴らし、40年前に有吉佐和子が『複合汚染』で化学合成物、農薬などの相乗作用での環境汚染と人体への影響の怖ろしさを世に問うても、現実は全く何も変わらず。

 人間は時短、便利を求め、利潤を追求し、大切な生命を危険にさらして生きています。企業は法律の穴をかいくぐり、人々も真の安全を見窮めようとはしません。私たちは市場規模拡大のための利潤と効率の大量生産である加工食品と食品添加物による食のグローバル化=危険のグローバル化であることを知ろうとせず、手軽さを求めて生きています。化学物質問題は全て後回し、それは国をあげての経済的合理性へ、そのための政治へと繋がるものです。

 なんとも文章力のない手紙になってしまいました。私は自分の体験をお伝えしたかっただけなのですが、余計なことをしているのかも知れません。もしそうでしたらどうぞお許しください。
 季節の変わり目、疲れもたまりますのでお身体ご自愛くださいますように。どうぞお元気で。

       4月15日  仁平美弥子
追伸 柳貞子さんが逝去されたとのこと、清泉でのコンサートの時の美しい歌を思い出しました。」

 以上、仁平さんからの手紙全文である。ショックを受けたというのは、今回の皮膚炎経験で漠然と感じ始めていた危惧を実に見事に言い当てられたからである。皮膚炎が治らないことに苛立ち、次々と薬を替えて塗布するうち、体の中に蓄積されてゆく化学物質によって、それこそ有吉佐和子の言う複合汚染が進行してゆくのでは、という恐怖である。
言葉を換えれば、老人になると自然に弱くなるにしても人間が本来持っている免疫力とか治癒力をますます弱らせていくのではないか、との恐れである。そういえば昔、子供たちは傷や炎症が治りかけのカサブタをいっぱい顔や体につけていたような記憶があるが、最近めったにそういう子供の姿を見ることがなくなった。おそらく強い成分の塗り薬などで治りが早く、しかも跡が目立たないようになったからではなかろうか。しかしそのために返って本来持っているべき免疫力や治癒力を次第に摩滅させてきたのではないか。

 実は右の談話室にも書いたように、昨日からクリニックで処方されたアナミドールはやめて、タンポポとヨモギの発酵液「ばんのう酵母くん」を使い始めた。目薬にも使える安全この上なしの液体である。顔だったらさすがに躊躇するだろうが、目の触れない脇腹などの炎症が変化を見せ始めた。赤く薄い段丘状になってきたので、見ようによっては悪化しているとも見えるが、しかしこれが治りかけの印に見えるのだ。説明はむずかしいが、体がそう伝えてくる。実はアナミドールという薬は、仁平さんからもらった文献に拠れば、人間が自ら分泌する天然副腎皮質ホルモンの代表たるコルチゾンの1087倍の強い薬らしい。確かに薬の説明文に長期にわたって使用しないようにとの注意書きがあった。実は先日、クリニックに薬を処方してもらう際、一向に効かないレスタミンコーワの代わりにこのアナミドールを十本ももらってきたのだ。仁平さんからの手紙で助かった。

 それにしても仁平さん、良くぞ知らせてくれた。清泉時代の彼女で覚えているのは、大学近くの高校(名前は忘れたが彼女の母校)で教育実習をしているときに担当教員として訪ねたこと、そして彼女が西文研究室の助手時代に大学の聖堂で今のご主人と結婚したこと、そして最近のことでは、東日本大震災が起こって直ぐの四月に、確か石巻の友人を見舞う娘さんと一緒にご夫婦で我が家を訪ねてきたことだ。他人の困苦を黙って見過ごすことのできない性分は、娘さんにもそっくり遺伝したらしい。

 ともかくここに彼女の手紙をそっくりご紹介したのは、このブログを読まれる方々の中にもきっと役立つ情報が含まれていると信じたからである。私もさっそく今日、まだ読んでいなかった『沈黙の春』と『複合汚染』がアマゾンにあの破壊された価格で出ているのを見つけ、さっそく注文したところである。原発反対、戦争反対の目標に新たに複合汚染反対の目標が加わったわけだ。三つとも同じ禍根(人間の飽くなき欲望)に由来する。さあ忙しくなるぞ。

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実にトリビアルなご報告


 前回に続いてまたもや景気の悪い話で申しわけないが、今日は難聴の話である。私より明らかに年上なのに耳が遠くない老人に会うと羨ましいなあと思う。つまりその違いは歳のせいだけでなく、何か他の理由があるはずだからだ。私のはいわゆる難聴の段階で言えば第一段階(と言うのかな)から中段階にかけてのあたりらしいが、これは左耳のことで右耳はもっと進んでいる(かも知れない)。

 以前ネットで購入したニコンの補聴器がすぐ壊れ、修理に出してもまたすぐ聞こえなくなった苦い経験から、高額の補聴器を購入することはやめて、代わってレンタルのものを使っている。調子が悪くなったときは店に持ち込んで調整してもらう。面倒くさいと言えばそうだが、でもニコンの場合のように修理に出してもすぐ壊れるよりはずっとましだ。

 現在使っているのは小さなドングリほどの大きさで、耳掛け式のわずらわしさが無い代わりに耳穴から落ちたり失くしたりする危険がある。最初は下部にある小さな輪っかに輪ゴムを通して耳に掛けるようにしていた。これだと確かに目立たないし、落とした場合でも少しは探しやすい。しかし補聴器も輪ゴムもあまりに軽いのでやはり何かの拍子に落とす危険がある。

 先日そんなことをつらつら考えていた時(暇でんな)、いいことを考え付いた。そうだ目立たない色の絹糸を二本撚り合わせ、一方を補聴器に、もう一方を例えば和同開珎銭(古いでんな)みたいなものに繋いで、それを胸ポケットに入れておいたらどうだろう。さっそく机の引き出しなどを探索した結果いいものが見つかった。先日安倍三崎さんからサラマンカ土産としてもらった四個の直径3センチ5ミリほどのブローチ状のものはどうだろう。おそらくウナムーノ記念館で売られていたものではなかろうか、ウナムーノをモチーフにした、まずは彼の似顔、彼が使ったらしいタイプライター、彼の得意な折り紙、そして彼のメガネが黒字に白い線で描かれている。もちろんバスク人特有の鷲鼻の彼の似顔絵を使おう。

 かくしてウナムーノが心臓近くに常に鎮座ましますというありがたい仕掛けが出来上がった。ところが半日ほどそうして身に付けたあと、とつぜんあることが心配になってきた。つまりそのメダル状の土産物の説明文をよく見ると、IMANES UNAMUNOとあるではないか。つまり磁気を帯びたメダルで、要するに鉄製のボードなどに紙片などを留めるものらしい。心配なことというのは磁気が身体に及ぼす害についてである。急いでネットで検索してみると、磁気が身体にとって有害であるという記事が見つかった。磁気と言っても極く弱いものだし心配するにはあたらないかも知れないが、現在全身に皮膚炎が広がっているので、微小の磁気でも用心したい。

 今度は二階の机のところにまで探索範囲を広げて、そこでちょうど良さそうなものを見つけた。直径4センチほどのいぶし銀まがいのメダルである。どこで買ったか、誰からもらったか、全く記憶にない。ともかく先ほどのウナムーノより少し重く、大きさもちょうど良い。どちらが表か裏か分からないが、一面には井桁状のたぶん十字架、もう一面にはIHSの文字が刻まれている。当然これはイエスを意味しているはずだが、なにせ近くに住みながら教会から遠ざかっている今の私にはちと自信がない。こういう時、ネットで検索するとたちどころに答えが見つかる。例えばこんな風に。

「イエス=キリストは、ギリシア語では、Ιησουs Χριστοs と書くようです。それをラテン文字に直すと、Ihsouz Xristozとなり、その最初の3つの文字IHSをとったものです。ただ、もう一つの説があります。IHSは、ラテン語の「人類の救い主イエス」(Iesus Hominum Salvator)の頭文字だとも言われる場合があります。
 さらに、こう書いてある場合もあります。ラテン語で「イエスは我らとともにあり」(Iesum Habemus Socium)の頭文字だとされています。」

 ちなみにこのIHSの上に小さな十字架、そしてその下に三本の釘が図案化されたものがイエズス会の紋章と出ていた。五年間ご飯をたべたところなのに、そんな紋章については教えられなかったか、教えられたのに完全に忘れたか。

 ともあれ今度はイエス・キリスト様が常にわが心臓の傍近くにおられるわけで、恐れ多いことこの上ない。これで少しは信心深くなるかも知れない。

 補聴器の相方探しのついでに、二回の廊下隅から懐かしいものも見つけてきた。これについてはどこかで書いたような記憶があるが、ともかくむかし九十近くのばっぱさんが何を血迷ったかテレビのコマーシャルを見て買う気になったものだ。もちろん実際には使わなかった、いや使えなかったと思う。Lateral thigh trainer、つまり足踏みステッパーである。これを二階から下まで両手で持って急な階段を下りたあと、もし階段の途中でコケて下まで落ちたら間違いなく骨折、下手すると病院行きだった、と考えて怖くなった。そんな歳になったのだ。家の中で骨折する老人などわんさかいる。いわきの姉も最近骨折して只今入院中らしい。クワバラ、クワバラ!

 以上すべて景気の悪い話に終始しました。次回はもっと明るい建設的な話にしましょう。

※二階の机周辺の捜索でもう一つ戦利品があった。小さな万歩計である。いつ買ったものか、これもすっかり記憶から消えていたが、使わなくなった集音器のボタン電池に合うものがあったので入れてみたら動き出した。さてこれで一日どれだけ動き回るのか調べてみよう。今度の皮膚炎にしてもストレスと運動不足が大いに関係していると思われるので、この万歩計を身につけることで少し運動不足に意識が向かうようにしよう。これまたみみっちい(トリビアル)な話で恐縮です。 

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このごろのこと


 四月に入ったと思ったら、いつの間にか今日はもう12日。今さら言うのも変だが、何と時の経つのが早いこと! 先月は美子の胃婁の調子をみるため朝昼晩と毎日三回も訪看さんたちのご厄介になったが、今月に入ってからは月曜から金曜まで、それもお昼だけ来てもらっている。消化器官が胃婁に慣れるまで今月いっぱい、特に排便のお世話が必要なわけだ。もちろん私も日に二回から三回のオムツ交換はやるので、運(ウン)が悪い(?)時には大の方の始末もしなければならない。しかしそこは歴戦の勇士、あわてず適切に処理できる。

 実は訪看さんたちはテープで留める式の紙パンツを使っていたのだが、私としては以前のように普通の紙パンツの方がやりやすいので、現在はそうしてもらっている。どうしてそうなのかはあまりに高度に専門的な話になるので(!?)説明は差し控える。

 かくして今月に入ってから美子の朝晩二回の栄養剤注入は私がすべてやっているわけだが、もうだいぶ慣れた。セッティングしても容器から細いチューブへの栄養剤の落下が適切な間隔であるかどうかを時々チェックする必要がある。つまり一秒に一滴の速度でなければならないのだ。こうして200㏄の栄養剤、そのあとやはり200㏄の白湯、最後はそれぞれかなり太目で大きな二本のスポイドに入った整腸剤(白湯に溶かしたもので朝はそれに利尿剤が加わる)とただの白湯を注入して作業完了。

 朝晩、それぞれたっぷり三時間以上かかるが、もちろん常時見ているわけではなく、私はその傍の机で自分の仕事をしている。仕事? そう私家本やら豆本の製作だ。おかげでこのところ作業は大いに進んでいる。

 しかし皮膚炎の方は一向に良くならない。お医者さんから処方してもらった飲み薬も塗り薬も今のところ効果無し。ところが今日机の横の茶箪笥を整理していたら、いいものが見つかった。忘れていたけどやはりだいぶ前、手か腕の皮膚炎で困っていた時に治子さん(などと気安く呼んでしまったが、ロシア文学の東大教授・安岡治子さんである)が送ってくれたアフリカ産のオーガニックのハンドクリーム、つまりシアバターである。今回の皮膚炎に効くかどうか分からないが、こうなっては怪しげな祈祷師にお払いしてもらってもいいとさえ思っている(まさか、ウソですよ)。

 痛いより痒い方が、いやいや両方ともごめんだが、なかなか辛いものがある。頭からつま先までだから厄介だ。特に頭皮の痒さはつらい。当然フケも大量にできて、時おり机の下などに粉雪のように、真っ白に積もっている(ちょっと大袈裟ですよ)。

 そんな汚い話ばっかりで申し訳ない。少しマシな話をすると、そんな爺さん介護師にも訪ねて下さる奇特な方がいて、蟄居・黙居老人の大いなる慰め、喜びになっている。先月末には早稲田大の森本栄晴さんと現在東北大の大学院で近世日本思想史(特に横井小楠)を専攻している息子さんの輝嗣君が何十年ぶりに会いに来てくださったし、今月に入ってからすぐ今回『情熱の哲学』出版に際して大変お世話になった執行草舟さんと安倍三崎さんが逆にお礼参り(いや、ヤクザさんのそれではなく本当の意味でのそれ)に、そしてつい数日前には大阪の昌川信雄神父さんと各教会の代表8人がこの陋屋を訪ねてくださった。遠路はるばる訪ねてくださる方々にはご苦労だし申し訳ないが、生涯1キロ四方世界に蟄居する身にとっては、それこそ「そのまま思い出になる」ような至福の時間であった。

※追記
 その間、悲しいこともあった。スペイン歌曲の女王・柳貞子さんが3月22日、帰天されたことである、享年86歳。柳さんとは、常葉時代、スペイン語とはそれまで縁のなかった学生たちのために企画した『スペインの夕べ』にお招きして歌っていただいた時以来のお付き合いだった。八王子に移ってからは町田のお宅に美子と伺ったこともある。お庭で美子と一緒に取った写真が残っている。つい最近も、いまリサイタルのための準備をしてます、というお便りがあったばかりだというのに。
 CD『82歳のポートレート』が私たちにとって柳さんの最後の歌声となってしまったが、しかしその中のカタルーニャ民謡『鳥の歌』は絶品だし、不実な女心を歌ったカンツォーネ『カタリ』はいつ聞いても胸が締め付けられる。こんな時に不遜な言い方だが、歌手の方はうらやましい、だって生の声を聞こうと思えばいつも、まるでその場にいるように臨在してくれるのだから。
 美子が知ったら悲しむだろう。心からご冥福を祈りたい。

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ヨブ的悲嘆(その二)


 表題に(その二)としたのは、およそ13年ほど前(2005/5/31)に同名の文章を書いたからである。内容はもちろん半ば冗談である。だいいち、私はヨブのように信仰の人ではない。震災後知り合って親しくお付き合い願っている或る神父さんの、彼は教会には来ないが信念の人ですから、という評言を人伝に聞いて嬉しくなっている態の不信心者である。旧約聖書のあの偉大なる人物の名前を冠したのは、前回同様(前回は糖尿病発覚に繋がった)、彼ほどの皮膚病(象皮病か)ではないがともかく皮膚炎に悩む男だからというただの一点からだが、クリニックと病院の皮膚科で処方してもらった薬が一向に効かないでいる。アレルギー性、アトピー性など重なりあっての、いや簡単に言えばただの老人性皮膚炎なんだろうが、一進一退を繰り返していて、それがストレスになってまた炎症を悪化させている。ある友人から、三日ほど絶食すれば治りますよ、と誠にありがたくもまた非情なご忠告もあったが、それを敢行する勇気がない態の信念の持ち主である。

 ヨブが難聴であったかどうかは知らないが、この現代の偽ヨブは難聴でもある。安い集音器ではやはり用を足さないので、パリ・ミキから補聴器をレンタルしているが、しかしこれとて難聴の不便さを解消してくれるわけではない。つまり面と向かって話しかけられれば聞き分けられるが、周辺での話し声は全く理解できないのである。特にテレビ・ドラマなどのセリフはほとんど聞き取れない。
 
 いや他人の皮膚の悩みや難聴のことなんぞ聞いてもクソ面白くもないので、この話はここまで。ところで残念ながら悲嘆の理由はそれら以外にもいくつかあるが、しかしその前に、およそ一月ほどの入院を終えて美子が無事帰宅できたことをまず感謝しなければなるまい。顔色も良く、反応も以前に戻っての自宅療養が始まった。今月いっぱいは、訪看さんたちが朝昼晩と三回も来てくださって胃婁が体になじむまでお世話してくださっている。ともあれ来月からは朝晩二回の栄養剤注入は私の担当になるので、それまでなんとか手順を修得しなければならない。
 
 朝晩三回も訪看さんが来て下さるのは誠にありがたいのだが、ベッドのすぐ傍の机に向かっている私としては、読書にも身が入らないし、さりとて訪看さんの作業を、たとえ見習い中とは言えいちいち見ているわけにもいかず、結局はその間、豆本や私家本の印刷製本をすることになった。こうしてこの十日ばかりの間に三、四十冊は作ったか。 
 
 しかし以前のように単発ながら注文する人も絶えてなくなった現在、新たなさばき先を見つけなければならない。つまり今までのようにせめて製作実費と送料だけでも、なんてケチな考えではなく、例えばすでに佐々木梓さんの呑空庵十勝支部や中西圭子さんの仙台支部が実践しているように、無料貸し出し文庫を作ってもらうことである。この際どなたか手を挙げて下されば、即刻準備にかかりますが、いかがですか。

 実はヨブ的悲嘆のもう一つは、そのことと関係無きにしもあらず。というのは或る人の仲介で個人宛ではなく或る組織にそれぞれ30冊の私家本を贈呈したのだが、以後いっさいの連絡がないことである。組織と言っても別途送った手紙はそこの長に当たる人宛なので、せめてハガキなりとも(あるいはメールなりとも)受領の連絡が欲しいところ。かなりの重量なので郵便局の駐車場から窓口まで折り畳み式キャリーで運んだり、いやそんなことより一枚一枚丹精込めて作った本の数々、御礼でなくともせめて受領の報告ぐらい、と思うのは自然だが、しかしもしかすると皮膚炎+難聴によるストレスがいつの間にか積もり積もって、それで気短になっているのか。

 そういえば先日も、美子退院の夕方、支払いを済ませて駐車場に向かう途中、このままでは今晩眠れそうもないな、と思い、取って返して会計窓口のお姉さんにこうのたもうた。あのね、お姉さんから見れば患者さんやその家族など下に見えるのかも知れないけど、でもお姉さんたちが食べていけるのは、患者さんがいるからだよ。支払いのあと、「ありがとございます」は変かも知れないけど、「ご退院良かったですね」、いやそれも長すぎるんだったら、せめて「ご苦労さんです」くらいの挨拶をしなさいよ、ときっちり睨みつけながら注意した。そんなこと言われたことがないのかびっくりした顔で、「はい」とは返事したが、さて翌日から彼女に変化があったかどうか。先日も病院の受付業務にいちゃもんを付けたが、会計も同じこと。せっかくいいお医者さんや看護師さんへの感謝の気持ちが、つっけんどんな会計の対応で水を差されてしまう。
 
 でもこれもそれも、ヨブ的悲嘆+ストレスのせいで、気短で怒りっぽくなった老人の所業かも知れない。でも残り少ない人生(といって長生きするかも)、少々(ですかー?)人に嫌われても、言いたいことはきっちり言っておきたいとは今も改めて思っている。

 以上の愚痴っぽい話で終わるのは私も嫌なので、少し実のある話で締めくくろう。と言って大した話ではないが、大震災後とりわけ意識の中にわだかまっている反近代の思想を考えるに際して役立つ一つの処方を、以上のようなヨブ的悲嘆の中で考え付いた。簡単に言えば、近代の三種の神器をPSSで表そうという思い付きである。すなわちプログレス(進歩)、スピード、スぺキュレーション(投機)である。飽くなき進歩幻想(右肩上がり)、スピード、投機心こそが狂った現代の状況を作り出している。進歩と投機についてはこれまでも何度か指摘してきたが、スピードについて一言。今の政治家のアホらしい言い草の一つ「スピード感を持って」を聞くたびに虫唾が走るが、己れの肉体を鍛えて早く走ったり高く跳ぶことに、オリンピックも近いことだし、とやかく文句を付けるつもりはない。しかしカーレースや最近ではエアレースなどというバカげた競技に熱中する人々の気持ちにとてもじゃないがついていけない。例えばいまエアレースで福島県出身のレーサーが脚光を浴びているが、でもあの競技の観戦中に観客の中に間違って墜落でもしたら、誰が賠償金を支払うのだろう。一瞬のうちに何十人、いや下手すると何百人もの死傷者が出るかも知れぬ危険な競技に、うつつを抜かす人たちの心理は、言って悪いが(かな?)やはり異常だろう。

 おや、またまたボヤキ始めたぞ。この辺でやめよう。

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長ーい長い私信


 先日は短い時間でしたが、とても充実した時間を過ごさせていただきました。初対面のはずなのに旧知のお友だちと再会したような楽しい時間でした。

 そして三日前、柳さん流の言い方をお借りすれば、パートナーさんにもお会いでき、しかもその折たくさんのご本まで頂戴して恐縮しました。

 実は息子さんの丈陽君(たけはる君、大学進学おめでとう!)、母上のことは知ってましたが、現在どのような家族構成かは全く知りませんでした。しかし玄関先に立ってらした方を見て、口をついて出た言葉は「あっご主人ですか?」でした。そしてそれに対してにこやかな笑顔で「はい」と答えられた瞬間、柳さんの現在の幸福を確信しました。そのうちぜひお揃いで、いやもうすぐブックカフェを始められると家を留守にすることが無理でしたら別々にでも、町場においでの節はまたお立ち寄り下さい。

 それまで私が持っていた柳さんの著書は、『水辺のゆりかご』(まだ見つかりません)と『生』、『家族シネマ』の3冊だけでしたが、『人生にはやらなくてもいいことがある』、『JR上野駅公園口』、『ねこのおうち』、『飼う人』、『春の消息』、『国家への道順』と一挙に6冊も増えました。それぞれがお心のこもった献辞と署名入りです。例えば『人生にはやらなくてもいいことがある』には「本の頁をめくる そこに私はいる」、そして『国家への道順』には「戦の中に人あり 戦の後に人あり」という具合に。

 さっそくその『人生には…』と『国家への道順』を多大の共感を覚えながら読ませていただき、初対面の時に感じた「魂の同質性」(埴谷雄高さんの言葉)が間違ってなかったことを改めて確認しました。あの日、話の途中で私の修道体験とそこからの離脱(還俗とも言いますが)のことが出たとき、両方とも確かに大事な決断だったが、しかし私は何か重大なことを決めるときにプロとコントラを比較考量などせず、ある時を境にちょうど秤の針が一気に傾いだ方を選んできた、そしてその決断を後悔したことは一度もない、と言ったとき、私もそうです、と強く同意なさった柳さんに感じた同質性です。

 柳さんが著書の中で南相馬との出会いを語られるそのときどきに、私の中に眠っていたいろいろな思い出もまた蘇ってきます。もちろん中には私の知らなかった南相馬の歴史や生活の諸相を改めて教えられもします。まだちらっとしか見ていないのですが、『春の消息』で、東北大教授の佐藤弘夫さんと訪ねられた大悲山や浦尻貝塚など、前者はたしか小学校時代に遠足で行っただけの薄い思い出だけでしたが、まさに南相馬の真の復興のための基層ともいうべきものへと、一気に目を開かせてもらいました。まさに『春の消息』の中扉に書いていただいたように「春は生者にも死者にも息吹を与える」からでしょう。

 こうして柳さんの著書は合計9冊になったわけですが、今朝思い立って『魂』、『 石に泳ぐ魚』、『命』、『フルハウス』、『声』の五冊も注文しました。でもご心配なく(?)これは現在の異常なまでに進化した物流構造のおかしなところで、尊い文化財がとんでもない安値で取引されているのを逆利用(?)して、文字通り破壊された価格で手に入れますので。実は私の著書もその破壊された価格で売りに出ているのが忍び難く(?)何冊かを救出したことがあります。柳さんの他の著書もこの方法でこれからも救出するつもりですが、でも今度いらしたときにそれらに献辞入りの署名をしていただければ嬉しいです。

 さあ、そうなると私の本棚に「柳美里コーナー」が出来上がることになりますが、柳さんのブックカフェの片隅にも(昔ならミカン箱にでも入れて)「富士貞房(佐々木孝)コーナー」を作っていただければ最高です。もちろんそれらは市販されてませんので、ご迷惑でなかったらこれまで作った私家本、そしてこれから作る私家本を寄贈させていただければ、の話です。

 実は先日も、仙台白百合女子大カトリック研究所と、日本基督教団西仙台教会にもそれぞれ私家本全冊(31冊)を寄贈しました。残り少ない人生(意外と長生きするかも)を周囲一キロ世界に蟄居する老人にしてみれば、ブログ発信のほか、こうして私家本や豆本を作って皆さんに読んでいただくことが唯一の楽しみになってます。

 ところで先ほどは、つい柳さんの南相馬体験に話が行ってしまいましたが、しかし『国家への道順』などを読むと、小説かエッセイかを問わず柳さんの書かれた文章の一つ一つに帯電している強い思いの根源が良く分かります。つまり在日作家の苦しいがしかし創作衝動の根源が実によく分かります。

 同じく在日作家の徐京植さんとは少し違ったものを柳さんに感じます。氏から頂いた本なのに批判めいたことを書くのは礼儀に反するかも知れませんが、例えば徐さんの『日本リベラル派の頽落』などは反論の余地がないほど実に鋭利に、理路整然といわゆるリベラル派批判をしてますが、しかし徐さんの立ち位置が少し気になります。簡単に言えば時には高見から、つまり生身の徐さんの足場が見えないままに、あるいはそれをむしろ捨象しての一刀両断に見えるのです。

 その意味でハンギョレ新聞の記者に語った柳さんの言葉は実に示唆的です。
「わたしは日本語にも韓国語にも常に違和感を覚えてきました。この違和感こそが、戯曲や小説を書く動機と武器になってきたのだと考えています。このギクシャクとした不自由な言葉を使って、わたしは書き続けるしかないのです。言葉は、私を傷つけ血を流させるものでしかありません」

 これは柳さんの作家として立つ動機ではありえてもあまりに苦しい道筋。しかし幸いにこれは二十年前のことで、「今は、ウリマル(在日の人が韓国語のことを言うときに【私たちの言葉】という意味でウリマルと言う。佐々木注)の学習に本腰を入れようと思っているんです。ソウルの大学に留学して…」と大きく変化したそうで、先日お会いした時に差し上げた『原発禍を生きる』の韓国語版や鄭周河さんの南相馬写真集がそのために役立ってほしいと願ってます。

 実は、もしかするともうお気づきかも知れませんが、このお手紙、確かに最初は文字通りの私信として書き始めましたが、途中から、待てよ、これは私の友人たちにも読んでもらいたいと結局は公開書簡にさせてもらうことにしました。かと言って内容・スタイルとも全く変わりません。つまり残り少ない(また言う!)人生でこれは私信、これは公開のもの、と腑分けすることが面倒、というより意味がない、と思うようになってきて、柳さんなら必ずこのことを理解してくださるだろうと確信しているからです。

 だらだらと長いお手紙になりましたが、ここまで来れば同じことと、ちょうど震災の年に書いたものをここに再録させていただきましょう。私と在日の方たちとのお付き合いの前史として。その時以後、今では大の仲良しになった今市教会の昌川信雄神父さんはじめ、在日の友人たちの数が少しずつ増えてきました、嬉しいことに。 

        ディアスポラからあゝ上野駅まで (投稿日: 2011 年 6 月 19 日)

 先日ここでご報告したように、徐京植氏との初対面の、しかも互いに相手をほとんど知らないままに、つまり氏は例の新聞紙上の私たち親子三代の写真、私といえば氏が在日の作家である、というだけの知識しか持っていないのに、なぜ旧知の間柄同士のような対談に進むことができたのか。
 
 氏に宛てた最初のメールで、私は考えようによれば実に不遜というか失礼なことを言った。まるで父違いあるいは母違いの兄弟(他に異父兄弟とか異母兄弟という言葉や、もっと露骨な日本語があるが好かないのであえて)に会うような気持ちです、と。といって白状すれば、私はこれまで身の回りに在日の知人はいなかったし、在日の友人もいなかった。さらに言えば、在日の歴史について正確な知識もない。それなのに、在日に対して、なぜか親しい、懐かしいような感情を持ってきた。いや、少年の私が朝鮮人の集落に生きていたような感じさえ持ってきた。もちろん錯覚である。
 
 しかしたとえば少年時の貧しさ、疎外感、不条理なものへの怒り…それらはすべて在日の人たちと共有できると思えたのである。先ほど身の回りに在日の人はいなかった、と言ったが、これまで何回か擦れ違ったことはある。最初は、旧満州から引き揚げて北海道の帯広に住むようになったとき、まだ終戦後間もなく世情騒然としていたある時、町の朝鮮人たちが戦中のひどい扱いに抗議して、槍玉に上がった人たちを襲っている、という噂が立った。相手をリンチするときの彼らの戦法、つまり人差し指と中指をV字型にして、それで相手の眉間を狙うなどという細部までまことしやかに伝わってきた。実際にそんなことが行なわれたわけではなかったのに。
 
 次は、イエズス会という修道会に入り、広島で修練していたとき、その修練院の裏手の急峻な小道を降りた先に朝鮮人の集落があった。それはほとんどが掘っ立て小屋のような貧しい集落であった。バス停への近道としてその側を通ることがあったが、後にそのときのことを「午睡」という掌編(「修練者」の中の)にこんな風に書いている。
 
 「夢の中の鶏たちは、裏山の裾に点在する朝鮮人部落で飼われている鶏たちだった。そしてその家の一軒がわが家だった。そのわが家の縁側に坐ってだれかと激論していたはずだが内容は思い出せず、ただそのときの熱気だけがこめかみのあたりに残っているだけだ。家を捨てたはずなのに夢にまで見るとは、これは本物ではないなと反省しはじめたとき、今度こそ本当にベルが鳴った」。(「青銅時代」、第27号、1984年所収)

 次は五年間の修道生活から足を洗って(?)相馬に帰ることになったとき、以前そこの学生寮にいたときに知り合った教会のカテキスタ(志願者などに教理を教える人)のおばさんが、将来結婚する相手候補として在日の娘さんを紹介してくれたことがある。還俗したての私にはあまりぴんとこない話で、そのときは特に気に留めないで聞き流していたが、その後相馬に戻っていた私のところにそのカテキスタから、今度その娘さんが東京を去って郷里の青森に帰るが、途中原町駅で途中下車させるので、迎えて欲しいと連絡があった。その日、次の列車(まだ電車ではなかった)までの時間、彼女を曇り空の殺風景な町の中を案内した。楚々としたもの静かな娘さんで好感は持ったが、結局その小一時間ばかりの淡い思い出しか残っていない。名前も彼女の住んでいる町のことも覚えていないので、もしかすると当たり障りのない話に終始したのだろうか。いま彼女も青森のどこかで孫たちに囲まれた幸福な生活を送っていると思いたい。
 
 最後は、定年前に辞めた大学で、或る年、朝鮮人の名前を持った女子学生が入ってきた。授業の際に教室で会うだけの接触しかなかったが、機会があれば話し合ってみたい、と思っているうちいつの間にか卒業してしまった(当時はまだ短大だったので)。
 
 以上が在日の人と擦れ違ったすべての過去である。
 
 いや、今回、徐氏とお会いしたときに感じたあの親密な感じは、そうした頼りない経験だけから生まれたものではなさそうだ。要するに私が現在置かれている状態が、どこか在日の人のそれと相通じるからではなかろうか。つまり今回の大震災とりわけ原発事故によってもたらされた精神的位相が在日のそれと酷似していることから来る親近性ではなかろうか。氏はディアスポラ(離散の民)という言葉を氏の思想のキーワードの一つにされている。換言すれば根扱ぎにされた人々(デラシネ)のことである。もちろん私自身は、ディアスポラにされること、デラシネになることに抵抗してきた。しかしそれは小状況にあっての抵抗であって、別の角度から、つまり俯瞰する視点から眺めれば、私もまた一人のディアスポラアに過ぎない。少々キザな表現を使って「奈落の底」と言ったのもそのことと関係がある。
 
 いやもっと巨視的な視点に立てば、東北それ自体が、近代日本発展史の中では常にディアスポラの位置に置かれ続けたと言ってもいい。富国強兵の時代には人買いも介入しての労働力として、太平洋戦争のときには最前線の尖兵として、列島改造論・高度成長の時代には集団就職組として、そしてGNP世界第二位の時代にはそれを支える電力エネルギー供給の拠点として、絶えざる収奪の対象であった。

 おや、気のせいだろうか、井沢八郎の「あゝ上野駅」(作詞 関口義明 作曲 荒井英一)が聞こえてくるようだ。

   どこかに故郷の 香りをのせて
   入る列車の なつかしさ
   上野は俺らの 心の駅だ
   くじけちゃならない 人生が
   あの日ここから 始まった

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